東京地方裁判所 昭和50年(ワ)6287号 判決
原告
木村愛二
右訴訟代理人弁護士
瑞慶山茂
同
田中敏夫
同
小池振一郎
同
永瀬彩子
同
坂本修
同
高橋修一
同
松井繁明
同
小島成一
同
渡辺正雄
同
上條貞夫
同
高橋融
同
西村昭
同
大森鋼三郎
同
小林亮淳
同
秋山信彦
同
永盛敦郎
同
山本眞一
同
柳沢尚武
同
岡田和樹
同
小木和男
同
斎藤健児
同
牛久保秀樹
同
井上幸夫
同
今野久子
同
小部正治
同
前田茂
同
志村新
同
坂井興一
被告
日本テレビ放送網株式会社
右代表者代表取締役
高木盛久
右訴訟代理人弁護士
竹内桃太郎
同
山西克彦
同
渡辺修
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告が被告に対し労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する。
2 被告は原告に対し、七五五二万九七二九円及び右金員のうち別紙(略)遅延損害金目録記載の各金員に対し同目録下段記載の各起算日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員を支払え。
3 被告は原告に対し、昭和五九年四月以降復職に至るまで毎月二五日限り四三万二八五九円を支払え。
4 訴訟費用は被告の負担とする。
5 2項及び3項につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 被告は、放送事業免許に基づくテレビ放送を主たる目的とし、肩書地に所在する本社のほか大阪市に支社を有する株式会社である。
原告は、昭和三六年四月一日、被告に期限の定めなく雇用されたものである。
2 被告は、昭和四七年九月二七日、原告を解雇(以下「本件解雇」という。)したと称して原告の労働契約上の権利を争っている。
3 原告が被告に対して有する賃金請求権は次のとおかである。
(一) 本件解雇以降昭和五九年三月末日までの未払賃金は、合計七五五二万九七二九円であり、その明細は別表(1)記載のとおりである。なお、その根拠は次のとおりである。
(1) 原告は、昭和三六年四月大卒定期採用として被告に入社した。賃金年齢は、昭和四七年四月現在三五歳であり、昭和五八年四月現在四六歳である。
扶養教育(家族)手当は、妻一人、子二人の分を請求する。
通勤手当は、国鉄市ケ谷、荻窪間六箇月定期券及び荻窪駅から自宅までのバス代(二五日×三箇月分×四回)の合計額を請求する。
(2) 基本給のうち特別給査定について
被告は、基本給のうち特別給についてプラス査定をしているが、昭和四八年までは一〇〇〇円から三五〇〇円まで五〇〇円きざみの六段階、昭和四九年以降は一二〇〇円から四二〇〇円まで六〇〇円きざみの六段階で査定を行っている。
原告の査定をどこに置くかについては、本件解雇によって評価の機会が失われているのであるから最高ランクの請求権を留保しているといえるが、被告の人事局報によると、被告は、昭和四八年までは一五〇〇円を昭和四九年以降は一八〇〇円をそれぞれ標準者査定と称し、賃金上昇率等の諸計算を行い全社に公表しているので、昭和四八年までは一五〇〇円、昭和四九年以降は一八〇〇円を原告の月例基本給の特別給査定として請求する。
(3) 夏期、年末一時金の査定について
被告は、夏期、年末一時金について、基本給の三パーセントから三〇パーセントまで三パーセントきざみで六パーセントを最抵保障として九段階のプラス査定を行っている。
これも(2)項と同様の問題を含むが、被告は一五パーセントを標準者支給額と称しているので、一五パーセントを原告の一時金のプラス査定として請求する。
(4) 待遇手当については、本請求の根拠として、昭和三六年大卒社員の中位の待遇を取り、その待遇手当を請求する。
なお、同年大卒者の昇給実態は別表(2)のとおりである。
(5) 賃金債務は、期限の定められた債務であり、本来賃金の各支払期ごとに遅延損害金が発生する。ここでは計算の便宜上、各年度の賃金を一括し、そのそれぞれについて遅延損害金を請求する。
(二) 昭和五九年三月現在、原告の月例賃金は四三万二八五九円(通勤手当を除く。)である。
被告は、毎月一〇日及び二五日の二回にわけて賃金を支払っているが、右金員を原告が復職するまで毎月二五日限り支払うよう請求する。
よって、原告は被告に対し、請求の趣旨記載の判決を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1、2の各事実は認める。
2 同3(一)の事実は否認する。ただし、原告の入社年月日、大卒定期採用であること、賃金年齢、扶養家族及び通勤区間は認める。また、被告は、基本給のうちの特別給、夏期・年末一時金について査定を実施しているが、仮りに原告が労働契約上の権利を有する地位にあることが確認されることがあるとしても、原告の昭和四七年九月までの勤務実績に照らしてそれ以後の査定結果が標準者査定となるとは到底考えられないし、待遇手当についても原告が昭和三六年大卒入社の中位と同等の昇格をすることもありえないところである。
同(二)の事実中、被告の賃金支払日が毎月一〇日と二五日の二回であることは認めるが、その余は否認する。
三 抗弁
1 (解雇)
被告は、昭和四七年六月二七日、原告に対し、就業規則四五条「職員が左の各号の一に該当するときは退職を認めまたは解雇することがある。」三号「勤務成績が著しく悪く改悛の見込みがないとき」に該当する事由があることを理由に、同日付けをもって原告を解雇する旨の意思表示をした。
2 (本件解雇に至るまでの経緯)
(一) 資料室への配置転換と原告の担当業務
被告は、昭和四六年七月二六日、原告に対し、編成局広報部から同局調査部調査課へ配置転換する旨の意思表示をした。同日、右配置転換発令後、小里光調査部長の招集によって調査部会が開催され、同部会で小里調査部長は原告に対し、調査課に所属する資料室勤務とし、同室の責任者である石川利男専門部長の指揮下に入る旨を指示した。調査部調査課事務室は本社ビル二階にあったが、資料室は、当時道路をはさんで本社ビルの向い側にあった地学会館の三階建の建物の一階にあった。石川専門部長は、原告に対し、同部会終了後、資料室において、同人の勤務時間は一〇時から一八時であることを指示し、また、担当業務については、同年八月一二日、資料室会議の席上、社員に貸出した本のうち返却期限経過後も未回収になっているものの請求、本の内側に貼る貸出票の整理及び資料室改善のため他社の資料室調査とその調査結果についてのレポート提出を命じた。
(二) 配転後出勤停止処分内示に至るまでの原告の勤務状態
(1) 原告の資料室における勤務状態については、同人が資料室で勤務を開始した昭和四六年八月九日以降ほとんど毎日出勤時刻に二〇分から三〇分、時には一時間遅刻するなど出退勤時刻を守らず、また、毎日本人が記入すべき出勤表に記入しなかった。そこで同月一七日、石川専門部長は、資料室において、原告に対し、出退勤時刻を厳守し、また、毎日出勤表に出退勤時刻を記入するよう注意し、指示した。これに対し、原告は、「今までは勤務がルーズだったので朝早く起きられない。」などというので、同専門部長は原告に対し、「勤務時間は一〇時から一八時までとはっきり決められているのだから僕のいうとおり勤務時間を厳守してもらいたい。」旨念を押した。また、原告は、他社に調査に行くと称して所属長である同専門部長に無断で外出するので、同専門部長は原告に対し、「私にことわってから外出するよう。」注意したところ、原告は「いちいちお前にことわれるか。」と怒鳴り返すという有様で、上司に対するこのような反抗的、侮蔑的態度はその後も改善されなかった。
なお、出勤表は被告が労働組合の合意を得て昭和四五年一一月から従来のタイムレコーダー制度に替えて実施している出退勤の記録で、毎月一日から一五日の前半と一六日から月末の後半の二部に分れており、記入に関しては、出退勤時刻は本人が毎日記入し、休暇などについては所属長の承認後、所属長又は本人が記入することとなっている。
(2) 同月二三日、資料室会議が開かれた際、その席上、石川専門部長が原告に対し同人の担当業務の一つである未回収書籍の回収整理の状況について報告を求めたところ、原告は「なかなか大仕事だ。」というので、同専門部長が進行を催促すると原告は、「こういうことは慣れているから私に任せろ。」などと答え回収整理の状況についての報告をしなかった。
(3) 同月三〇日午後三時ころ、資料室会議の席上、資料室の改善などについて話し合われた際、石川専門部長が原告に対し各社資料室の調査結果を提出するよう指示したところ、原告は、「資料室の部屋を本社内に移転するのが先だ。」などと言い出してまともに答えようとしなかった。これに対し、同専門部長が当面右移転が無理なこと、したがって、現在の部屋の改装についての案を出すよう求めたところ、原告は激昂した態度で「だからあんたは駄目なんだ。我々はこの部屋に長く住む気はない。よく考えろ。」などと詰め寄り、最後には「あんたにはいくら話しても無駄だ、俺はこんな空気の悪い所で仕事はしたくない。」と捨てぜりふを残して会議の途中であるにもかかわらず席を立って資料室から出て行ってしまった。
原告はこの日ころから資料室に時々顔を出す程度でほとんど居着かなくなった。
(4) 同年九月一七日、石川専門部長は、前に注意したにもかかわらず、原告の九月前半(一日から一五日)の出勤表が全く記入されていないことを知り、資料室にいた原告に毎日記入するよう求めたところ、原告は一括記入の上、所属長である石川専門部長に提出しないで、勝手に小里調査部長の許に提出した。石川専門部長は同日、原告が資料室に帰ってきたときをつかまえて、重ねて、出勤表には毎日記入すること、休暇をとるときは同専門部長の了承を得るよう注意したが、原告は、「お前さんにいちいちそんなことを断われるか。」などと侮蔑的、反抗的態度を示し、同専門部長の指示に従おうとしなかった。
(5) 同年九月二〇日、石川専門部長が原告に対し、谷川弘子の手伝い(図書の整理)を命じたところ、その業務打合せ会議に出席していなかった原告は、不在の間に担当業務を決めたことを不満とし、「僕がいないとき話し合いをするなんて全くでたらめだ。この部屋にいると気持が悪くなる。調査部に行く。」などといって勝手に資料室から出て行ってしまい、右手伝いはその後も全くしなかった。
(6)(ア) 同年一〇月二〇日午前一一時三〇分ころから資料室会議が行われたが、その席上、石川専門部長が資料室の改装とこれに伴う図書の移動について説明し、この際クーラーを移設したいと述べたところ、原告は、資料室を本社ビル内に移動するべきで来年夏まで地学会館内の資料室にいる気は毛頭ないのでクーラーの移動は考えられないなどといって反抗的になり、更に資料室改装工事が遅れているのは同専門部長の責任であるとして、同専門部長に対し、「謝まれ。」「だからお前はだめなんだ。」「反省しろ。」と侮蔑的態度を示し、会議中であるにもかかわらず勝手に退室した。
(イ) その後(同日)、石川専門部長は、資料室の改装の件で本社ビルに赴き、二階の調査部前の廊下で泉川康雄編成管理部長と相談していたところ、原告が現われ、原告は、石川専門部長の顔を見るなり右工事の件で同専門部長に詰め寄り、挙句の果には「ばかやろう。」などと面罵した。
(ウ) さらに、同日午後一時四〇分過ぎころ、原告から石川専門部長に電話があり、「資料室の仕事に私が食い込むと年輩者を追い出すことになる。会社側の腹は見えすいている。私は今後一切資料室の仕事はやらない。図書の移動にも手を出さないからそのつもりでいてくれ。」などと無茶なことをいうので、同専門部長は、「そういうことは電話で話すことではない。私の部屋へ来て話しなさい。」と注意したが、原告は耳をかさず、「私は新聞の切り抜きやその他の仕事を考える。仕事の報告は時期をみて出す。」などと勝手な事を言って電話を切ってしまった。
(7)(ア) 同年一〇月二二日、小里調査部長は、原告が最近調査部事務室にたびたび現われるので、石川専門部長の依頼もあって原告に対し資料室で勤務するよう注意したが、原告は、これを全く無視して資料室での勤務を拒否し続けた。
(イ) 同日午後二時過ぎころ、調査部にいた原告から石川専門部長に対し、電話で民放連主催の資料管理者セミナーに出席するので、その旨記載した文書を小里調査部長に提出する旨連絡してきたので、石川専門部長から「私の所へ来て話しなさい。」と注意したにもかかわらず、原告は、「そこには行かない。小里部長の机の上に置いておく。」などと石川専門部長の注意を無視して電話を切ってしまった。
(8) 同年一〇月二五日午前一一時二〇分ころ、石川専門部長は、原告の勤務態度を改善させるため調査部事務室にいた原告に電話をし、小里調査部長と同席で資料室別室で話し合おうといったところ、原告は編成応接室でなら話合いに応ずるとのことであった。そこで、午前一一時五〇分ころ、両部長が原告と話し合うため調査部事務室に原告を呼びに行ったところ、原告は既に所在不明であった。
(9) 同年一〇月二七日午前一〇時五〇分ころ、原告から石川専門部長に右資料管理者セミナーの件で電話があったので、現在の所在場所を聞くと調査部にいるとのことであった。そこで専門部長は、「小里部長と一緒に君と話したいからそこにいなさい。」と指示し、小里調査部長と連絡をとって、午前一一時二〇分ころ調査部事務室に赴こうとしたところ、原告は既に姿を消して所在不明であった。
(10) 原告は、一〇月後半分の自己の出勤表を資料室綴りから勝手に取りはずし調査部事務室に持っていっていた。そこで、小里調査部長がこれを石川専門部長に渡し、同専門部長がこれを保管していたところ、同年一一月四日、原告は同専門部長に電話をし、いきなり「出勤表を持っていっては困るな。」と文句をいい、同専門部長から仕事の話もあるので資料室にすぐ来るよう指示されてもこれに従おうとしなかった。
(11) 同年一〇月二九日から三日間をかけて資料室の内部改装等の工事が行われたが、同年一一月九日、右改装後の初めての資料室会議が小里調査部長同席のもとで行われた。その席上、石川専門部長は、原告に対し、工事による多量の本の移動に伴い資料室員全員で整理するので、従前指示した業務を一切止めて、本の移動整理を行うよう命じた。これに対し、原告は、身体の具合が悪く、咳が出て胸が痛んでできないというので、同専門部長は身体の事は医者にみてもらうか厚生部長に相談するようにと述べた。原告は、小里調査部長に対し、調査課にまわして欲しいと要望したので、同調査部長が医者の診断書を出すように指示すると、原告は、「僕の身体のことを医者がわかるものか。」などと暴言を吐いて反抗的な態度をとるという有様であった。そして、石川専門部長が業務命令として、出勤表は毎日記入すること、欠勤、早退、遅刻や離席についても、その際は同専門部長に申告するよう指示したところ、原告は「うるさい。」と怒鳴り返し、これに従おうとしなかった。
(12) 同月一一日、原告は、被告診療室で治療を受け、医師横森周信作成の「診断・慢性喉頭炎、附記・耳鼻科的診察の結果、声帯周辺に慢性炎症による発赤を認めるため、当分の間、塵埃の多い環境での作業を避ける方がよい」と記載された同日付け診断書を被告に提出した。
そこで、小里調査部長は、厚生部に資料室が右診断書記載の「塵埃の多い環境」に当たるか否かについて調査を依頼した。これに対し、被告は、右診断書は耳鼻咽喉科医師佐藤恒彦の診断結果に基づくものであったことから、佐藤医師に依頼し、同年一二月上旬、同医師に資料室を視察してもらったところ、同医師は、この程度ならば原告の勤務に全然心配はないとの意見を述べた。
(13) 同年一二月一二日、同日は休日(日曜日)であったが、石川専門部長はスト対策要員として報道局の事務室で勤務していた。そこへ原告が午後八時ころ突然酒気を帯びて現われ、同専門部長に対し「ばかやろう。」と怒鳴り、なおも近寄って「ばかやろう、お前はばかだ。」と繰り返した。同専門部長は「私がばかとは何だ。」と言い返すと原告は更に「お前は俺をどうしようとするんだ。あんなほこりのひどい所で本を整理しろとは、そんなことができるか、よく考えろ。お前はばかだ。」と詰め寄った。同専門部長もあまりの侮辱に立腹したが戸沢陽一報道局管理部長、鈴木嘉夫同部次長待遇に止められ、また中平公彦同局次長が原告を連れ去って事無きを得た。
なお、原告は、一二月に入ってからほとんど資料室には出勤していなかった。
(14) 原告の昭和四七年一月中の出退勤及び勤務状態のうち、問題となる事実を列記すると次のとおりである。
(ア) 同月六日、原告は午前一〇時ころ資料室に出勤したが、石川専門部長を見かけると、黙って部屋を出て行き、そのまま戻らなかった。
(イ) 同月七日、一〇日、一一日の各日とも、原告は、資料室の同僚(七日は滝本緑、一〇日は谷川弘子、一一日は丸山千恵子)に電話で父の入院見舞のため遅刻する旨を連絡し、午前一一時三〇分ころ一旦は資料室に出勤したが、間もなく石川専門部長に連絡をしないで部屋を出て行きそのまま戻らなかった。
(ウ) 同月一七日、一八日、原告は、出勤表では通常勤務をしたことになっているが、両日とも資料室では勤務せず所在不明であった。また、同月一九日、原告は無断で遅刻して午前一〇時三〇分、一旦は資料室に出勤したが間もなく黙って部屋を出て行き、そのまま戻らなかった。
(エ) 同月二〇日、原告が午前一〇時ころ資料室に出勤したので、石川専門部長は、原告に対し、出勤表の記入と実際の出勤時間が違っているので、五分程度のことは別だが、午前一一時三〇分ころ出勤しながら午前一〇時出勤とは認められないから訂正するよう指示したところ、原告は従おうとしないので、同専門部長が再度指示すると、原告は「出勤表は賃金計算だけのものだ、文句をいうな。」と反抗し、更に石川専門部長が原告に「出勤表は毎日記入すること。席の離脱は必要以外にしてはいけない。もし離れることがある場合は私に申し出るか、不在のときは部屋の人に断って行くこと。書庫内の本棚の本のチェック並びに整理をしなさい。」と指示したところ、原告はこれに答えず「小里部長と話をする。」と言い残して資料室を出ていった。そして、原告は、資料室に戻ってきたとき一月後半の出勤表を勝手に綴りから外して調査部に持参し、小里調査部長に対して「資料室では仕事をしないからこっちに持ってきた。」と申し出たので、同調査部長は原告に対し、「君は資料室勤務だから間違えないように。」と注意した。
(オ) 同月二一日から原告は朝も資料室へ顔を出さなくなったが、同日、小里調査部長不在の間に、同調査部長の机上に「もう資料室へは勤務しない。」旨の書置きを残していた。
(カ) 同月三一日、原告は、調査部事務室において、小里調査部長に対し、「資料室勤務ではなく部長から直接業務命令を出してくれ。」などといってきたが、同調査部長はこれを拒否した。
(15) 同年二月一日、原告はこの日も勝手に調査部事務室にきたので、小里調査部長が原告に対し、「君は資料室勤務だから石川専門部長のもとで命ぜられた業務をしなさい。」と指示したところ、原告は「仕事は会社の方で頭を下げて頼みにくるものだ。」などとうそぶいて従おうとしなかった。
(16) 同年二月四日、原告はこの日も勝手に調査部事務室にきて、何もしないでいた(資料室の改装に伴う図書整理は他の資料室員によって殆んど終っていた。)。小里調査部長は原告に対し、今日から自分が業務命令を出すと断った上、メモを見ながら「他社資料室の調査結果を資料室にある君のデスクでレポートにまとめて提出するように。」と指示した。これに対して、原告は反抗し右指示を聞かず、調査部事務室の同僚も加担して激しいやりとりとなった。同調査部長は人事担当に連絡し、これを受けて山中重雄人事局人事部次長待遇が急行したところ、間もなく原告は右事務室から出て行ってその場は終った。
(17) 同月八日、原告がこの日も小里調査部長の前記指示を聞かず、調査部事務室に出てきて何もしないでいるので、午前一〇時三〇ころ、小里調査部長は石川専門部長立会いのもとで原告に対し、「他社資料室の調査結果を資料室にある君のデスクでまとめ、レポートを二月一四日までに提出するように。」と命じた。
ところが原告は、石川専門部長に向かって大声で怒鳴り始め反抗的な態度に終始し、同専門部長を面罵するに至ったので、小里調査部長は人事担当に立会いを要請した。人事局から右山中と作間人事局次長が急行して原告をたしなめたが、原告はこれに対しても反抗し、「チンピラ職制が偉そうなことをいうな。」などと面罵する有様で命令を一切聞こうとせず、昼休みになって原告が退室して終った。
同日夕刻、原告は、小里調査部長が泉川編成管理部長と話し合っているところに現われ、小里調査部長に向かって「あのようなわからない命令には従えない。」といい残して立ち去った。
(18) 同月九日午後、小里調査部長は、調査部事務室において原告に対し、重ねて前日の業務命令を指示したが、原告は「あの場所では出来ない。」などと拒否するので、同調査部長は「将来、調査課の業務を考えてもよいが、その前に現在の業務命令に従うように。」と指示したが、原告は、これにも反抗して従わなかった。
(19) 同月一〇日、調査部の事務室が本社ビル二階から技術館三階に移転した。
同日午後、原告が移転後の調査部事務室へ出てきたので、小里調査部長は原告に対し、前述の業務命令の履行状況を確認したところ、原告は「耳鼻科の先生にみてもらった結果大分悪いのであの部屋では仕事ができない。」などと答えた。そこで、同調査部長は原告に対し、佐藤医師の調査結果を伝え、同医師によれば、原告の資料室での勤務はなんら差し支えないとのことであるから、資料室で前記レポートを作成して提出するようにと説得したが、原告は、全く聞き入れなかったばかりか、同月一四日までに調査部事務室に原告の机を置かなければ小里調査部長の机を占拠するなどと暴言を吐く始末であった。
(20) 同月一四日夕方、小里調査部長は、調査部事務室にいた原告に対し、前に指示したレポートの提出を求めたところ、同人は「何もしなかった。」と答えるのみで提出予定日もいわず、間もなく同室から立ち去った。
(21) 同月一五日午前一〇時三〇分ころ、小里調査部長は、調査部事務室にいた原告に対し、前記業務命令を履行しなかった理由を聞いたが、その途中で原告は突然同調査部長の椅子に腰をおろして同調査部長の席を占拠した。同調査部長は、直ちに原告に対し、「業務妨害になるからどけ。」と繰り返し命令したが、原告は、これを無視して同調査部長の机を占拠したまま動こうとしなかった。同調査部長は人事担当に連絡したので、山中人事部部次長待遇が同室に急行した。山中が調査部事務室に着いたとき原告は一瞬小里調査部長の机から離れようとしていたが、山中の顔をみると再び椅子に坐り机を占拠した。そこで、山中は、原告に対し、小里調査部長の執務の妨げとなるのですぐにどいて、資料室で業務につくようにと指示したが、原告は、指示に従うどころか、山中に対し、「チンピラ職制が何をいうか。」などと悪口雑言の限りを尽し、挙句の果には「処分するならしてみろ。」などとわめく有様であった。
山中は同日大西隆元取締役の葬儀の手伝いもあってやむなく退室したが、原告は依然として小里調査部長の机を占拠し続けていたので、当時調査部担当の舟山謙一編成局次長も同室に赴いて原告の説得に当たった。しかし、原告は、同局次長に対して、「小里部長が調査課プロパーの仕事をしてもよいといったのに机を資料室から移動しないので部長の椅子に坐っている。」などと言い張って同調査部長の席を空けようとせず、昼休みころまで占拠した。
そして、同日の夕刻になって原告は、「今週一杯は机もないし体の調子も悪いので休む。」旨を小里調査部長にいい残して退室した。
(22) 同月二二日、小里調査部長は、昼ころ調査部事務室に現われた原告に対し、前記レポートの提出について確認をしたところ、原告は、それには答えずに突然激昂し「処分できるものならしてみろ。」と怒鳴り、いきなり傍にあった丸い小型椅子を振り上げて床にたたきつけた(そのため金属パイプ製の右椅子の脚は曲ってしまった)。
そこで同調査部長は、原告に対し、仕事をしなければ処分すると答え、さらに、各局資料室の調査結果をまとめよというのは業務命令であること、また、原告の勤務場所が資料室であっても何ら不都合はないと佐藤医師は言明している旨を付言して説得したが、原告は耳をかそうともしなかった。
(23) 同月二五日、小里調査部長は、原告が調査部事務室にある部外者用作業机に座りこんでいるのをみかけたので、原告に対し、前述のレポート作成状況を質問したところ、原告は「あそこ(資料室)では健康上仕事ができない。」などと答えるのみで、業務の進行状況については答えなかった。
(24) 同月二八日午後、小里調査部長は、原告が右部外者用作業机で本を読んでいるのをみかけたので、原告に対し、「君の席は資料室だ、あちらで仕事をしろ。ここは君の机ではない。」と命じたが、原告は、返事もせずに、これを無視して座っていた。
その後、小里調査部長は、三月一日、七日、一五日、二四日にも、それぞれ原告が右部外者用作業机を無断使用していたので、原告に対し、二月二八日と同様の命令をしたが原告は一切答えず終始沈黙したまま、これを無視して座っていた。
(25) 同年四月六日午前一〇時四五分ころ、小里調査部長は、石川専門部長立会いのもとに、調査部事務室にいる原告に対し前述の業務命令を重ねて出したところ、原告は、激昂し、反抗的態度をとるのみならず、小里調査部長に対し、ばかと怒鳴るなど暴言の限りを尽した。その間のやりとりは次のとおりであった。小里「資料室の君のデスクで前いったレポートを書け。」
原告(しばらく沈黙の後怒鳴り出す)「ばか。そんな命令は聞けない。」
小里「ばかとは何だ。僕の命令が聞けないのか。」
原告「そんな一方的な命令は聞けない。僕の健康の事も考えないで……。」
小里「あの場所については医者に聞いてある。」
原告「警察病院の医者の話なんかだめだ。医者はこちらで指定できるのだ。」
小里「とにかく前やった仕事のまとめをやって欲しい。」
原告「できない。資料室改善案を出すということで調査したが、途中でやめさせられた。」
小里「調査したまとめをレポートにして出しなさいといっている。」
原告「労務にいわれてやって来たんだろう。俺は徹底的に闘う。会社が俺を首にしようがどうしようがかまわない。俺は徹底的にやる。」
小里「とにかく俺のいうことが聞けないのだな。」
原告「聞けない。」
小里「聞けないのなら僕も君のことで考えなければならん。」
(三) 原告に対する出勤停止処分内示
(1) 被告は、前記のような原告の目に余る就業規則違反の数々の行為を黙過し得ないと判断し、職場秩序の維持確立と本人に反省を求めるため原告を懲戒処分に付することとした。
(2) 原告の前記行為の責任は極めて重く、原告は既に被告従業員としての適格を欠くとも考えられたが、初めての処分であることを勘案し、その反省と今後の改善を期待して今回は特に出勤停止五日間の軽い処分(以下「本件出勤停止処分」という。)にとどめることとし、原告の所属する民放労連日本テレビ労働組合(以下「組合」という。)との協定に従って昭和四七年四月一〇日左記内容を文書をもって組合に通知した。
記
「貴殿は昭和四六年七月二六日より資料室勤務を命ぜられたが、その後再三にわたる所属長の注意にもかかわらず、命ぜられた仕事をせずに就業時間中無断で職場を離脱し、業務を放棄し、これを注意する所属長に対しても馬鹿野郎呼ばわりするなどして上司を侮辱し、且つその業務を妨害し、正当な理由なく業務上の命令を拒否した。
上記行為は、就業規則第六一条一号、二号、三号、第五条一項、二項、第六条三号、第七条二号に該当する。
よって第六二条二号により、出勤停止五日に処する。」
(3) 同日、被告は、所属長をして原告に本件出勤停止処分を内示しようとしたところ、その所在が全く不明であったことからやむを得ず夕刻二回にわたって社内放送により呼出しを行ったが、原告は出頭しなかった。
(4) これに対して、原告は、協定に従い、組合に対して本件出勤停止処分について異議申立てを行ったので、同月一二日、組合から被告に対して懲戒委員会設置の申入れがなされた。そして同月二四日には労使双方の委員通知が行われ、協定に基づく懲戒委員会が設置され、懲戒委員会は同年八月二四日まで八回開かれたが、組合側は徒に審議の引きのばしをはかるという態度であったため、被告は第八回をもって懲戒委員会の審議を打切り、同月二五日付けで原告に対する本件出勤停止処分を発令した。
なお、この懲戒委員会は同年三月三一日付けをもって内示された組合役員の処分も併合して審議することとなったので、被告は原告の件を先議するよう主張したが、組合の反対が強く、結局交互に審議することとなった。
(四) 出勤停止処分内示後の原告の勤務状態
被告は、本件出勤停止処分の内示によって、原告の改悟反省を期待したのであるが、この期待は完全に裏切られた。
原告は、右内示後も所定の勤務場所たる資料室での就業は一切行わず、以前から禁じられていた調査部事務室の部外者用作業机の無断占拠を続け、注意する職制には一切答えないか、若しくは怒鳴るなどの行為に終始した。以下、右内示以後の原告の言動について日を逐って述べる。
(1) 昭和四七年四月一三日、被告は、右部外者用作業机は原告の無断占拠によってその効用を失い、業務上も支障を来たしているので、やむなく右机を撤去し、原告が無断で置いていた私物類を資料室の机に移し、木製の机を調査部事務室に設置して、部外者の使用に供することにした。ところが原告は、またこの木製の机と椅子(スチール製)を無断使用し、職制の度重なる注意にも従わなかった。
(2) 同月二八日午後四時二〇分ころ、小里調査部長は、石川専門部長立会いのもとで、調査部事務室にいた原告に対し、次のとおり命令した。
〈1〉 資料室勤務として石川専門部長の指示に従うこと、机は資料室。
〈2〉 他社資料室の調査結果をレポートにしてまとめること。
〈3〉 健康の問題については人事、厚生に相談すること。
そして石川専門部長が補足説明したところ、原告は、「小里、石川の打合せの上のデッチ上げだ。」などとくってかかり、「この業務命令は聞けない。」などといって拒否した。
(3) 原告は、右命令以後も資料室での勤務を一切行わないので、小里調査部長は、同年五月九日、一一日、一七日、二五日、六月五日と、調査部事務室で原告と顔を合わせるたびに、右業務命令を繰り返し伝えたが、原告は逆に「会社の考えは変らないか。」などと茶化したり、また、反抗的な態度を示すなど、本件出勤停止処分内示以前と全然変らない勤務状態であった。
(4) 同年六月一四日
(ア) 午前一一時ころ、被告は原告の勤務態度の改善を求めるため、専務取締役松本幸輝久編成局長が直接業務命令を出すこととし出頭を求めたところ、原告は他の調査部員、組合役員など数名とともに同専務の席に現われた。同専務は、原告以外の者は帰れと命令したが従わないので、このような異常な状態下で業務命令を出すべきでないと判断し、重ねて原告以外の者の退室を命じたが拒否して騒ぐ有様であったから、人事当局の来室を求めた。かけつけた田川人事局長は、原告に対し、「組合執行部の立会いなしに業務命令を聞く意思はないのか。」と質問したが、原告は返事もせず「執行部がいてなぜ悪い。」などと言い張るので、松本専務は原告に業務命令を受ける意思がないものと判断して打ち切った。
(イ) 同日午後五時五〇分ころ、小里調査部長は、石川専門部長同席のうえ、調査部事務室において、原告に対し業務命令を出した。このとき小里調査部長は、原告に対し、「今朝君のとった行動について、松本専務のところへ行って謝りなさい。」といったところ、原告は「何いってんだ、こっちも怒っている、こっちが謝ってもらいたい。それより早く業務命令を出せ、こっちは忙しいんだ。これから病院へ行く、診断書をもらわなければならない。」というので、小里調査部長は、更に「この前も話した通り、木村君の席は資料室にある。石川専門部長の指示に従って仕事をしてもらいたい。それから君の出勤表は資料室の人と一緒に綴じてある。あそこで毎日記入せよ。綴込みから勝手にはずして持出しては困る。」と注意した。これに対して、原告は、「どこでつけようと勝手だ。あなたには黙認してもらっている。」などと身勝手なことをいうので、小里調査部長は、「黙認していない。」とはっきり否定した。そして、業務命令を読もうとすると、原告は、「ちょっと待て。」といって紙と鉛筆を用意した。そこで小里部長は、「木村君には前にもいっている通り、各局資料室を調べたレポートを作成し提出してもらう。それから図書目録作成のための準備作業をやってもらう。戸松さん時代に、四五年六月まで作成されているがその後やっていない。またこれの分類表の作成も併せてやってもらう。それから図書の利用状況を各局別に分けて一覧表を作ってもらいたい、今後本を購入する時の参考にもなる。以上を資料室の自分の席でやりなさい。」と指示した。原告は、「俺が身体の悪いのを知っていてあの部屋で仕事をやれというのだな。俺は医者にみてもらったところ四つのアレルギー症状がある。それでもやれというのだな。」と抗議するので、小里調査部長は、「君の身体のことは私にはわからない。前にもいった通り人事か厚生部長と話合ってもらいたい。」と述べたところ、原告が「あんたがそんなこと処理できないのか。」というので、小里調査部長は、「私の権限外のことです。」と答え、さらに、原告が「いうことはそれだけか。」というので小里調査部長は「そうです。」といって終った。
(5) 同月一五日、原告と廊下ですれ違った小里調査部長は、原告に対し、「資料室で命ぜられた仕事をするように。」と指示したが、原告は返事もせずに立ち去った。
(6) 同月一六日午後一時過ぎころ、原告が小里調査部長の机に六月前半の出勤表を持参したので、同調査部長は、原告に対し、「それは毎日資料室で書くべきもので石川部長に提出せよ。」と注意したが、原告は、返事もせずに机上に置いた。さらに、小里調査部長は、原告に対し、前記六月一四日口頭で与えた業務命令と同一内容の業務命令を文書にしたものを渡した。原告は、これを一旦受取ったが、しばらくしてから小里調査部長のもとに来て「これは受取れない、命令書など見たこともない。」といって同文書を返却したので、同調査部長が「命令は聞かれぬのか。」と質したところ、原告は、それには返事もしないで立ち去った。
(7) その後、小里調査部長は、同月二〇日午後二時二〇分ころ、二一日午前一〇時一五分ころ、二二日午前一〇時二〇分ころ、二三日午前一一時二〇分ころなど、調査部の前記部外者用作業机を無断占拠している原告を見かける度に、原告に対し、前記の業務命令を口頭で伝達し続けてきたが、原告は、それに対して沈黙を続け無視してかえりみなかった。
(8) 同月二三日午後零時一五分ころ、原告は、小里調査部長のもとにきて車代を請求したが、同調査部長が業務に関するものと認められないとして認印を拒否したところ、話題をかえ業務命令について、「毎日同じことをいうのをやめてくれ。」というので、同調査部長が「やめられない。」と答えると、原告は、同調査部長を無能職制呼ばわりするなど侮辱的な言辞をはき、「そんな職制は仕事の命令を出すのをやめろ、お前こそ向こう(資料室)で仕事しろ。」などと悪口雑言の限りを尽してわめいた。
(9) それ以後も、小里調査部長は、原告を見かける度に業務命令を出したが、原告は、依然として同調査部長の指示に従わず、次に例示するような非常識極まる侮辱的、反抗的態度に終始した。
(ア) 同月三〇日午前一一時一〇分ころ、同調査部長の指示に対し、「またいうか。」と怒鳴り返した。
(イ) 同年七月三日午後五時一五分ころ、同調査部長の指示に対し、「しつっこい。」と怒鳴り出した。
(ウ) 同月四日午後一時三〇分ころ、同調査部長の指示に対し、「お前こそあちらでやれ。」といい返した。
(エ) 同月五日午後二時五〇分ころにも、原告は、同調査部長に対し、前日と同様「お前の方こそあちらでやれ。」といった。
(オ) 同月一一日午前一〇時四〇分ころ、同調査部長の指示に対し、「お前こそ行ってやれ。」と怒鳴り返した。
(カ) 同月一三日午前一〇時二〇分ころ、同調査部長が「君の机は資料室だからあちらで仕事をするように、また、ここ(部外者用作業机)は他の人が使うのだから私物などを置くな。」というと「お前こそ交通費を出せ。」といい返し、「お前とは何だ。」というと「お前で沢山だ。」と答える有様であった。
(キ) 同月二四日午前一〇時ころ、調査部事務室に入る段階で原告に「資料室で仕事をするように。」と指示した同調査部長に対し、「うるさい、ばかもの。」と怒鳴った。
(ク) 同月二七日午前一〇時二五分ころ、調査部の事務室で小里調査部長が「君は資料室勤務だから資料室の仕事をしろ。ここは君のデスクではない。占有されては困る。」と指示したところ、原告は、「そんなことはお前の決めることではない。」と反抗した。
同日午後二時、本社ビル七階第七応接室で調査課の課会を開いているところへ、原告は遅れて入ってきて、同調査部長に対し、「業務に関する指示をやめてくれ。そんなことで私が資料室で仕事をするとでも思っているのか。」などというので、同調査部長は、「仕事の指示をするのは当然だ。すぐ資料室へ帰って仕事をしなさい。」と指示した。さらに、同日午後三時二〇分ころ、調査部事務室で小里調査部長が岡田晋吉チーフ・プロデューサーと業務の打合せをしているところに原告が現われ、「業務命令を出すのをやめろ。机をこちらによこせ。交通費を出せ。」などと要求した。これに対し、同調査部長は、「業務命令を出すのをやめるわけにはいかない。資料室勤務だからあちらで仕事をしなさい。出勤表を持ち去ってはいけない、あちらで毎日書きなさい。」と指示したところ、原告は反抗的な態度を示すのみで全く従おうとしなかった。
(ケ) 同月三一日午前一一時ころ、小里調査部長は原告が出勤表を勝手に抜き取ったことが判明したので注意したが、原告は反抗するばかりで従おうとしなかった。
(コ) そのほか六月二九日午前一一時四五分ころ、七月一七日午後五時三〇分ころ、八月九日午前一〇時二〇分ころなどに小里調査部長は原告に指示したが従わなかった。
(10) 以上のとおり、出勤停止処分内示後の原告には反省の色がみえないどころか、前にも増して反抗的となり、資料室での勤務は全くないといってよい状態であった。
そこで 被告は、原告に業務命令を文書で出すこととし、同年八月一五日午後五時ころ、調査部事務室で左記業務命令書を、小里調査部長が原告に対し手交した。
業務命令書
資料室勤務の木村愛二君に対して下記の業務を命ずる。
1 図書目録作成のための準備作業
a 四五年六月以降購入図書の一覧表作成
b 上記購入図書の分類表作成
2 図書利用状況の各局別、日、月別一覧表作成
3 従来与えられていた各局資料室状況の調査報告書作成業務はそのまま継続するものとする。
4 以上の業務を資料室の本人デスクに於て行うこと。
原告は黙ってこれを受領して帰ったが、翌一六日午前一〇時一〇分ころ、小里調査部長の机にやってきて、同調査部長に対して、「業務命令書を毎日出してみろ。」と大声で怒鳴り、机を激しくたたいて立ち去った。
(11) 同月一八日午前一〇時一〇分ころ、調査部事務室において、小里調査部長は右と同内容の業務命令書を原告に手交したところ、原告は「毎日ちゃんと出せ。」などと茶化した態度で受取ったが、室内の複写機で写しをとった後、同命令書の原本を八つ裂きにして、これを机に向っていた小里調査部長の頭上から振りかけるという行為に出た。
(12) 同月二二日
(ア) 午前一一時ころ、小里調査部長は、調査部事務室において、原告に対し、右と同内容の業務命令書を手交したところ、原告は、すぐ丸めて床に捨てたが、また拾い上げて内容を確かめ、これを複写機で写しをとった後、八つ裂きにし再び丸めて小里調査部長に「いやがらせはやめろ。」などといって机上に置いて立ち去った。
(イ) 事ここに至っては、被告は、原告にはもはや被告の従業員としての自覚が全くなくなったとしか考えられないのであるが、原告に最後の反省の機会を与えることとし、原告に対し、田川人事局長名をもって次の警告書を手交することとした。「貴殿は去る四月一〇日付通告した出勤停止処分内示以降、依然として所属長はじめ上司の命に従わず、所定場所における就業を拒否し、処分内示理由に当る行為を繰り返している。
会社としては再三にわたり貴殿の就業時間中における言動に対し、所属長より警告し反省を求めたにも拘らず、全く改悛の態度がみられず、去る八月一八日一〇時一〇分にも小里調査部長より業務命令が文書により発せられたが、これに基く業務の執行を拒んだのみではなく、命令書原本を所属長はじめ調査部員の面前で八つざきにし、小里部長にふりかけるが如き行為に及んだ。これらの行為は正に業務命令を拒否し、かつ上司を侮辱し、さらに上司に対して反抗し、職員として許容することの出来ない行為に該当するものである。会社としては貴殿の言動を到底黙過し、放置することができないので直ちに文書をもって所属長及び会社に対して、その非違を認め、これについて謝罪するとともに今後このような行為を一切繰り返さないように誓約し、所属長の指示に従って業務に従事するよう厳重に警告を発するものである。以上」
午前一一時一五分ころ、山中人事部部次長待遇は作間人事局次長立会いのもとで警告書を原告に人事部事務室で手交し説明したところ、原告は、人事局の職制に対し「ばかやろう。」「チンピラ。黙れ。」「首にするならさっさとしたらどうだ。」「やるならやってみろ。」などと大声で悪態の限りを尽した。人事局、総務局執務室にいてつぶさに目撃していた社員は、原告の余りにも理性を失した態度に全員総立ちとなるという状況であった。
(ウ) 午前一一時四五分ころ、原告は、調査部事務室に戻った小里調査部長に対して、「警告書についての考えを聞きたい。」とか「処分をするつもりなのかどうか。所属長として解決するつもりがあるのか。」などと聞くので、同調査部長は、「私は君に命じた仕事をやってもらうだけだ。」と答えた。
これに対して、原告は、机をたたいたり怒鳴るなどして同調査部長にくってかかり、午後零時二〇分ころまで激しく詰め寄ったのち、右事務室を出て行った。
(13) その後も原告には反省の態度は全く見られず、資料室での就業拒否の状態が続いたが、被告は、原告の言動及び組合の審議に臨む姿勢からみて、懲戒委員会をこのまま続けるのは相当でないと判断し、同月二四日をもって審議を打ち切り、原告に対し、同月二五日付けにて同月二六日以降五日間の本件出勤停止処分を発令した。
(五) 出勤停止処分発令後の原告の勤務状態
本件出勤停止処分(昭和四七年八月二六日から三一日のうち五日間)後、同年九月に入っても原告の勤務状態は全く改善されなかった。
原告は資料室の出勤表綴りから、自己の出勤表を無断で抜き取って持ち歩いたので、所属長は原告の出退勤については、その日の状態をメモしながら管理した。
同月一日以降の原告の言動を、同人が自ら記入して同月一八日、小里調査部長の許に提出した出勤表と対比しつつ述べると次の通りである。
(1) 同年九月一日、右出勤表に原告は「病欠」と記入している。
原告は、午前一〇時ころ、調査部事務室にきて、前記「部外者用作業机」を無断使用していたが、組合書記局に電話するなど、約一〇分して同事務室を出ていった。そして午後一時四五分ころ、調査部事務室に組合ニュースを持って現われたが、約五分間調査課員と話して同室を出たまま行方不明となった。
(2) 同月四日、右出勤表に原告は「病欠」と記入している。
原告は、午前一〇時五分ころ、調査部事務室にきて、前記作業机を無断使用していたが、約二〇分間いて同事務室を出ていった。その後、午前一一時ころから約一〇分間と、午後四時五分ころから約五分間同事務室に現われたが(後の場合は組合ニュース配布)、その余は行方不明であった。
(3) 同月五日、右出勤表に原告は「産休(妻の出産)」と記入している。
原告は、終日姿を見せなかった。
(4) 同月六日、右出勤表に原告は「産休(妻の出産)」と記入している。
原告は、午前一〇時三五分ころから一〇分間と、午後一時二〇分ころから三〇分間、調査部事務室に現われたが(後の場合は小里調査部長が帰室したのをみて出ていった)、その余は行方不明であった。
(5) 同月七日、右出勤表に原告は「病欠」と記入している。
(ア) 被告は、右のような原告の出勤状態に照らし、原告に対し、業務命令書と後記警告書を手交することとした。
このため、小里調査部長は、同日正午前、二度にわたり社内放送を通じて原告と連絡をとるべく努力したが、原告からの応答はなく、午後零時四五分ころ、組合役員二名(仲築間、酒井両執行委員)が小里調査部長のもとにきて、右社内放送の理由を詰問し、原告は休みだなどといった。
同日午後四時五分ころ、調査部事務室に原告が組合役員二名(仲築間、羽谷両執行委員)とともにきたが、同二五分ころ小里調査部長が同事務室に戻ると、仲築間が発言したので、
小里 「中闘の諸君には用はない。木村君に用がある。」
仲築間 「係争中の問題だから立ち会うのは当然だ。」
などのやりとりがあったが、小里調査部長は、原告に対し、後記警告書と業務命令書を手交した。
(イ) このときのやりとりは次のとおりである。
原告「これは挑発だから業務命令とはいえない。」
仲築間「なめるな。」(怒鳴る)
原告(右文書を黙読して)「出勤表のことは前にも黙認したことがある。」
小里「そういうことはない。」
このとき石川専門部長が来室。
小里「木村君、今日は休みなのか。産休なのか、届がでていないのでわからない。」
原告「組合に身柄を預けてあるんだから、いちいち答える必要はない。」
といって退室し始めたが、
仲築間「とにかくあいた口がふさがらないよ。」(と捨台詞)
小里「木村君、君は部長の監督下にないのかね。」
原告は、小里調査部長の最後の質問には答えず、組合役員と同事務室を出ていった。
(なお、同日夕刻行われた被告、組合間の事務折衝の席上、組合から「病気治療のため木村を休ませる。」旨申入れがあったが、被告は「筋違いである。」としてこの申入れを断った。)
(ウ) 被告は、被告従業員としての原告に対し、これまでもあらゆる手段、方法を講じて、被告従業員たるの自覚を換起すべく努力してきたのであるが、同日重ねて田川人事局長名で左記警告書(〈証拠略〉)を、原告に手交して反省を求めた。
「貴殿は去る八月二二日に通知した警告書にもかかわらず依然として所属長及び会社に対して自己の非違を認めて謝罪することなく、また会社の指示に従って業務に従事していない。これ等のことは、八月二二日付の会社の警告を完全に無視したものと判断せざるを得ない。また所属長の管理のもとで出退勤の際記入手続きすべき出勤表を、所属長の注意にもかかわらず、みだりに出勤表綴りよりはずし自分の手許に持ち去り、一方的な勤務時間の記入を行なっている。このような所為は会社の規律保持上絶対容認しがたいところであり、いわんや会社が指定した方法によらない出勤表の記入は一切認めることができない。従ってこのままでは貴殿が正規に出勤しているとは認め難い。
会社としては、このような無規律かつ業務命令違反の勤務状態を放置しておくことはできないので、直ちに貴殿の出勤表を正規の設置場所である資料室の出勤表綴りに戻し、所属長の管理の下に正確に出退勤を記入するよう、厳重に警告を発するものである。以上」
(6) 同月一一日、右出勤表に原告は「病欠」と記入している。
(ア) 同日午前一〇時二五分ころ及び午後二時四〇分ころの二度にわたり、財団法人東京都予防医学協会による資料室等の汚染度調査が行われた。
また、午前一一時ころからは、同協会により調査部事務室の汚染度調査が始められたが、たまたま原告が同事務室の前記作業机にいて、蔵本勝太郎厚生部部次長待遇に「何の調査だ。」などと質問した。
(イ) 午後一時五〇分ころ、原告が同事務室にきて組合ニュースを配布したので、小里調査部長は、原告に、業務命令書を手交し、「今日は休みなのかどうか。」と聞いたところ、原告は、部外者用作業机上の紙を示し、「組合がいったとおりだ。」といって同事務室を出ていった。
(7) 同月一二日、右出勤表に原告は「産休(妻の出産)」と記入している。
原告は、終日姿を見せなかった。
(8) 同月一三日、右出勤表に原告は「病欠」と記入している。
原告は、午後二時四〇分ころ、調査部事務室に現れ組合ニュースを配布、調査部員と話をかわし約五分で同室を出ていったが、その余は行方不明であった。
(9) 同月一四日、右出勤表に原告は「産休(妻の出産)」と記入している。
原告は、終日姿を見せなかった。
(10) 同月一八日、午後一時五〇分ころ、原告が調査部事務室に現れたので、小里調査部長は、原告に対し、「今日は休みではないのか。」と質問したが、原告はこれを無視して答えず、約五分で同事務室を出ていった。その余は行方不明であった。
その後、小里調査部長が九月前半の出勤表を点検したところ、原告の出勤表が綴じ込まれていたので、この日原告は右出勤表を綴りの中に挿入にきたものとわかった。
(なお、この日右部外者用作業机の上に、「木村さんは当分休みの連絡あり」との筆者不明のメモが置かれていた。)
(六) 原告に対する解雇通知
被告は、以上のような資料室配転後の原告の勤務状態は、就業規則四五条三号「勤務成績が著しく悪く改悛の見込みがないとき」に該当し、解雇相当との結論に達し、同年九月二〇日、協定に従って労働組合に対し原告の解雇を通告するとともに、原告に対しては同月二七日付けをもって解雇を通告したのである。
3 (本件解雇の理由と相当性)
労働契約上、労働者は使用者の指揮命令に従って誠実に労務を提供すべき義務を負うものであるが、既に詳述したとおり、原告は、
〈1〉 出勤状態が極めて不良であるばかりでなく、
〈2〉 上司の指示・命令を無視してほしいままに行動し(被告は業務指示者の変更という大譲歩までしている)、
〈3〉 上司の命じた業務をほとんど履行せず、
〈4〉 この間、上司から再三再四、注意、警告されても一切無視して改めず、
〈5〉 昭和四七年八月一八日には、業務命令書を手交した上司の面前で八つ裂きにしてその頭上から振りかけるという暴挙を敢えてし(同月二二日にも同種の暴挙を繰り返している)、
〈6〉 また、注意、警告する上司に対して、「ばかやろう」「チンピラ職制」などと悪態の限りを尽す、
など、およそ常識では考えられない態度を示しているのであって、殊に被告が原告の反省と改悟を期待して本件出勤停止処分の内示をして以降は、反省するどころか逆に上司及び被告に対する反抗的、侮辱的言動はますます激化して、とどまるところを知らぬ有様に陥ったので、被告は原告にはもはや被告の従業員として上司の指揮命令に従って、誠実に労務を提供する意志が全くないものと判断して、本件解雇の措置に出たものであり、この被告の措置はまことにやむを得ないものとして、何人にも承認せられるべき客観的な相当性があるものといわなければならない。
四 抗弁に対する認否
1 (解雇)について
認める。
2 (本件解雇に至るまでの経緯)について
(一) (一)(資料室への配置転換と原告の相当業務)の事実中、原告に対し、被告主張のとおり配置転換する旨の意思表示がされたこと及び昭和四六年八月一二日調査部会が開催され、これに原告が出席したこと、資料室と調査課事務室の位置関係は認めるが、その余は否認する。被告は、原告に対し、具体的な職務内容を何ら命じなかったので、原告は、同僚と相談して、自発的に職務を行った。
(二) (二)(配転後出勤停止処分内示までの原告の勤務状態について)
(1) (1)の事実中、出勤表は被告主張のとおりの経緯で実施されている出退勤の記録で、主張のとおり二部に分かれていることは認めるが、その余は否認する。
出勤表は半月ごとにまとめて記入するのが職場の慣行であり、これは被告も認めていた。原告は右慣行に従い、半月ごとに出勤表に出退勤の状況を記入したものである。
(2) (2)の事実は否認する。
(3) (3)の事実は否認する。
(4) (4)の事実中、石川専門部長が、九月一七日、原告に対し、出勤表には毎日記入するようにと発言したことは認めるが、その余は否認する。
(5) (5)の事実は否認する。
(6) (6)の(ア)の事実中、被告主張のとおり資料室会議が開かれ、その席上、石川専門部長が、資料室の改装と図書の移動について説明したこと、同専門部長と原告が話し合ったことは認めるが、話合いの内容は争い、その余は否認する。
同(イ)、(ウ)の各事実は否認する。
(7) (7)の(ア)の事実中、原告が資料室で勤務せず、調査部事務室(調査部調査課の机)で勤務したことは認めるが、その余は否認する。原告は被告の了解を得て調査部調査課の机で勤務したものである。
同(イ)の事実中、被告主張の日時のころ、原告が石川専門部長に対し、電話で、民放連主催の資料管理者セミナーに出席することについて連絡したことは認めるが、その余は否認する。
(8) (8)の事実中、被告主張の年月日ころ、石川専門部長が調査部事務室(調査部調査課の机)で仕事をしていた原告に電話をしてきたこと、その際、同専門部長が小里調査部長と同席で資料室別室で話し合おうといったこと、原告が編成応接室でなら話し合いに応ずるといったことは認めるが、両部長が調査部事務室に原告を呼びに行ったところ、原告が既に所在不明であったとの点は否認し、その余は知らない。
(9) (9)の事実は否認する。
(10) (10)の事実中、原告が自己の出勤表を資料室の綴りからはずした事実は認めるが、その余は否認する。
(11) (11)の事実中、資料室の工事が行われたことは認めるが、その余は否認する。
(12) (12)の事実中、原告が被告診療室で治療を受けたこと、横森医師作成の同日付け診断書を被告に提出したこと及び右診断書は佐藤医師の診断結果によるものであることは認めるが、その余は知らない。
(13) (13)の事実中、同年一二月一二日、石川専門部長がスト対策要員として出勤し、午後八時ころ報道局事務室にいたことは認めるが、その余は否認する。
(14) (14)の事実は、いずれも否認する。
(15) (15)の事実は否認する。
(16) (16)の事実中、同年二月四日、調査部事務室において、小里調査部長が原告に対し、他社資料室の調査結果を資料室内でレポートにまとめよ、という発言をしたこと、その最中に山中重雄人事局人事部部次長待遇が現われたことは認めるが、その余は否認する。
(17) (17)の事実中、同月八日、調査部事務室に小里、石川両部長がいたこと、小里調査部長が原告に対し、他社資料室の調査結果を資料室でレポートにまとめるようにと命じたこと、その最中に山中と作間が現われたことは認めるが、その余は否認する。
(18) (18)の事実中、同月九日、調査部事務室において、小里調査部長と原告が原告の業務に関して話し合つたことは認めるが、その内容については争う。
(19) (19)の事実中、同月一〇日に調査部事務室が本社ビル二階から技術館三階に移転したこと、同日午後に原告が移転後の調査部事務室に出てきたこと、原告が小里調査部長と話し合つたことは認めるが、話合いの内容は争う。
(20) (20)の事実は否認する。
(21) (21)の事実中、原告が小里調査部長と話し合ったこと、そこに山中と舟山が現れたことは認めるが、話合いの内容については争い、その余は否認する。
(22) (22)の事実は否認する。
(23) (23)の事実は否認する。
(24) (24)の事実は否認する。
(25) (25)の事実中、同年四月六日ころ、小里調査部長が調査事務室において、原告に対し、「資料室の君のデスクで前いったレポートを書け。」と発言したこと、原告が小里調査部長に対し、原告の健康を考えない一方的な命令は聞けないと述べたこと、小里調査部長が原告に対し、「聞けないのなら僕も君のことで考えなければならん。」と発言したことは認めるが、その余は否認する。
(三) (三)(原告に対する出勤停止処分内示)について
(1) (1)の事実は知らない。
(2) (2)の事実中、被告が昭和四七年四月一〇日原告に対する出勤停止五日間の本件出勤停止処分を、被告主張の文書をもって組合に通知したことは認めるが、内容の当否については争い、その余は知らない。
(3) (3)の事実中、原告の所在が全く不明であったとの主張は否認し、その余は知らない。
(4) (4)の事実中、懲戒委員会について、組合側は徒らに審議の引きのばしをはかるという態度であったことは否認し、被告は組合役員の処分の件よりも原告の件を先議するよう主張したが、組合の反対が強く、結局交互に審議することとなったことは知らない。その余は認める。ただし、八回の審議のうち、原告の処分に関しては二回(六月二日と同月一二日)のみであり、他は組合役員に対する処分に関してと懲戒委員会の運営についてのみであった。しかも、被告の、原告の処分に関する懲戒委員会での態度は極めて不誠実であった。すなわち、右懲戒委員会は、回数が二回であったのに加えて、その時間も極めて短かく、そのため処分理由に関する審議はほとんどされておらず、原告の処分理由に関する裏付け調査、証人喚問(組合は一〇人の証人を申請していた。)等も一切行われないまま、被告が一方的に打切りを宣するという不当な態度に出てきたものである。
(四) (四)(出勤停止処分内示後の原告の勤務状態)について
冒頭の事実中、原告が資料室での就業は一切しなかったことは認めるが、その余は否認する。
(1) (1)の事実中、同年四月一三日、被告が調査部事務室において、原告が使用していたスチール製机を撤去し、原告の私物を移動し、木製の机を設置したこと、原告がスチール製椅子を使用したことは認めるが、その余は否認する。
(2) (2)の事実中、被告主張の日時ころ、小里調査部長と石川専門部長が調査事務室にいたこと、同調査部長が原告に対し、被告主張の業務命令を発したことは認めるが、その余は争う。
(3) (3)の事実中、原告が資料室で勤務していなかったことは認めるが、その余は否認する。
(4) (4)の(ア)の事実中、被告主張する日時に、被告専務取締役松本幸輝久編成局長が、原告の出頭を命じたこと、原告が他の調査課員、組合役員など数名とともに同専務の席に現われたこと、同専務が原告以外の者は帰れと命令したが従わなかったこと、同専務が原告の所属する編成局の最高責任者であること、同専務が再度重ねて原告以外の者の退室を命じたが拒否したこと、田川融人事局長が現われて原告に対し、「組合執行部の立合いなしに業務命令を聞く意志はないのか。」と発言したことは認めるが、その余は争う。
同(イ)の事実中、同日、小里調査部長が石川専門部長同席のうえ、調査部事務室において、原告に対し、松本専務に謝るよう発言したこと及び原告に対し、被告主張のとおりの業務命令を出したことは認めるが、その余は争う。
(5) (5)の事実は否認する。
(6) (6)の事実中、被告主張の日時に、小里調査部長が六月一四日付けの業務命令書を原告に渡したこと、原告がこれを受け取り、しばらくして返却したことは認めるが、その余は否認する。
(7) (7)の事実は否認する。
(8) (8)の事実中、このころ原告が小里調査部長に対し車代を請求したこと及びこれを同調査部長が拒否したことは認めるが、その余は否認する。
(9) (9)の事実について
前文、(ア)ないし(キ)、(ケ)及び(コ)の各事実は否認する。
(ク)の事実中、被告主張の日時に、調査課の課会が開かれたこと、原告が同課会で発言したことは認めるが、発言内容については争う。また、このころ、調査部事務室の岡田善吉がいたこと、原告が小里調査部長に対し、「交通費を出せ。」と要求したことは認めるが、その余は否認する。
(10) (10)の事実中、被告主張の日時に、調査部事務室で小里調査部長が原告に対し、主張のとおりの業務命令書を手交し、原告がこれを受領したことは認めるが、その余は否認する。
(11) (11)の事実中、被告主張の日時に、調査部事務室において、小里調査部長が原告に対し、主張のとおりの業務命令書を手交したことは認めるが、その余は否認する。
(12) (12)の(ア)の事実中、被告主張の日時に、調査部事務室において、小里調査部長が原告に対し、主張のとおりの業務命令書を手交したことは認めるが、その余は否認する。
同(イ)の事実中、同日午前一一時一五分ころ、人事部事務室内で、被告主張の文書が原告に手渡されたこと、同文書を手渡されたのは執務時間内であったこと、原告が人事部事務室を午前一一時二〇分ころ出ていったことは認めるが、その余は否認する。
同(ウ)の事実中、同日午前一一時四五分ころ、被告主張のとおり、原告が小里調査部長に質問したのに対し、同調査部長が答えたことは認めるが、その余は否認する。
(13) (13)の事実中、被告が原告に対する本件出勤停止処分についての懲戒委員会を打ち切ったのが八月二四日であるとの主張は否認し、その余は認める。前記のとおり、被告が原告に対する本件出勤停止処分についての懲戒委員会を開いたのは、六月二日と同月一二日の二回のみであり、それ以降は開いていないのであるから、六月一二日をもって打ち切ったことになる。
(五) (五)(出勤停止処分発令後の原告の勤務状態)について
冒頭の事実中、原告に対する本件出勤停止処分の日付けが昭和四七年八月二六日から同月三一日のうち五日間であったことは認めるが、その余は否認する。原告は、九月一日以降原告を病気治療と休養のために休ませ、その間に勤務場所と業務内容について会社と交渉して解決するという組合の方針に従って病欠をとったものである。以後の原告の活動は全くの組合活動のみである。したがって、勤務状態を云々すること自体全くのいいがかりである。
(1) (1)の事実中、原告の「部外者用作業机」の使用が無断であること、原告の所在が行方不明となったことは否認し、その余は認める。
(2) (2)の事実中、原告の「部外者用作業机」の使用が無断であること、原告の所在が行方不明となったことは否認し、その余は認める。
(3) (3)の事実は認める。
(4) (4)の事実中、午後、原告が小里調査部長が帰室したのを見て退室したこと、その所在が行方不明であったことは否認し、その余は認める。
(5) (5)の冒頭の事実は認める。
同(ア)の事実中、組合役員二名(仲築間、酒井両執行委員)が小里調査部長のもとにいったこと、原告が休みであるといったことは認めるが、その余は争う。
同(イ)の事実中、仲築間「なめるな」(怒鳴る)の箇所及び同「とにかくあいた口がふさがらないよ。」(と捨台詞)の箇所を否認し、同日夕刻の被告と組合の事務折衝の席上のやりとりは知らない。その余は認める。
同(ウ)の事実中、同日被告がその主張のとおりの警告書を原告に手交したことは認める。
(6) (6)の冒頭の事実中、原告が出勤表に病欠と記入したことは認める。
同(ア)の事実中、資料室及び調査部事務室の汚染度調査が行われたことは知らない。その余は認める。
同(イ)の事実中、同日午後に原告が調査部事務室で組合ニュースを配布したこと、小里調査部長が原告に業務命令書を手交したことは認めるが、その余は否認する。
(7) (7)の事実は認める。
(8) (8)の事実中、原告の所在が行方不明であったことは否認し、その余は認める。
(9) (9)の事実は認める。
(10) (10)の事実中、昭和四七年九月一八日午後、原告が調査部事務室に現われたこと、原告の出勤表が同事務室の出勤表ファイルに綴り込まれていたこと、「部外者用勤務机」の上に被告主張のメモが置かれていたことは認めるが、その余は否認する。
(六) (六)(原告に対する解雇通告)について
同年九月二〇日、被告から組合に原告の本件解雇の通告があったこと、被告から原告に対して、同月二七日付けをもって本件解雇が通告されたことは認めるが、その余は争う。
3 (本件解雇の理由と相当性)について争う。
五 再抗弁
本件解雇は、以下に述べるとおり、解雇権を濫用するものであり、かつ、不当労働行為に当たるから、無効である。
(解雇権濫用)
1 業務命令の違法、無効
被告が原告に対して命じた資料室で就労すべき旨の業務命令は、次に述べるとおり、違法であり無効であるから、原告が資料室で就労しなかったことは本件解雇理由である「勤務成績が著しく悪い」に該当しない。したがって、本件解雇は、解雇権の濫用であり、無効である。
(一) 勤務場所の違法な変更
原告と被告は、原告が資料室の仕事を行うについて、勤務場所を調査課の室内と特定して合意し、これは原告の労働契約の内容となった。
すなわち、原告は、昭和四六年九月二〇日ころ、小里調査部長に対し、後記のとおり資料室内での勤務によりアレルギー性疾患が発病したこと等を説明し、調査課室内で資料室の仕事をしたい旨申し入れたところ、同調査部長は直ちにこれを承諾した。そこで、原告は、すぐに調査課室内に移り、資料室の仕事を行った。また、石川専門部長は、昭和四七年二月三日、原告に対し、同人を「資料室要員とは考えていない。」旨回答し、原告を資料室での勤務から調査課室内での勤務に配置換えすることにつき、改めて確認した。
ところが、被告は、同月四日、同月八日等、以後たびたび原告に対し、資料室内で勤務することを命じたが、このような命令は正当な理由のないものであり、違法である。
(二) 安全保護義務違反
使用者は、病気に罹患する恐れのある労働者又は病気に罹患している労働者を作業に就かせるについては、労働者がその作業を行うことによって、病気が発病し又は悪化しないように措置を講じ保護する法的義務(安全保護義務)があり、これは労働契約の内容となっている。
被告は、原告に対し、資料室内で勤務することをたびたび命じたが、このような業務命令は、以下のとおり、原告にアレルギー性疾患を発病し、悪化させる恐れがあったから、安全保護義務に違反するものであり、違法、無効なものである。
(1) 原告のアレルギー
原告は、室内塵(ハウス・ダスト)、カビ類を抗原とする重症の即時性(アレルゲン吸入後一〇分位たてば発病する。)のアレルギー症に罹患していた。
(2) 資料室について
資料室は、本社ビル前の道路を隔てた向い側にあるレンガ造り三階建の古い建物である地学会館の一階にあった。資料室は、この古い建物の中にあるのに加えて、三万五〇〇〇冊にのぼる古い書籍等を長期にわたって保存しているため、室内塵(ハウス・ダスト)やカビ類が多量に存し、室内の空気が汚れていた。そのうえ、資料室の勤務場所には小さい換気扇が一個あるほかは換気装置が不備で、労働環境としては極めて悪い職場であった。なお、このような資料室の労働環境の悪さは、かねてから、組合や職場で取り上げて改善するよう被告に強く要求してきたが、被告は全く聞き入れず、放置してきた。
(3) 資料室勤務による症状の増悪
したがって、原告が資料室内で勤務する場合には、アレルギー性疾患が発病し、これを悪化させる恐れがあった。実際、原告は、資料室に勤務したことが原因で、次の被告診療室ほか医師の診断結果によるとおり、昭和四六年九月ころからアレルギー性諸疾患を発病し、それを悪化させた。
昭和四六年
九月二二日 〈1〉両側慢性副鼻腔炎(急性増悪症)
〈2〉慢性咽頭炎
同月二八日 鼻汁が黄色、咽頭発赤
一〇月一日 鼻炎、鼻からの出血(かむとまざる)
同月二一日 〈1〉資料室勤務により鼻炎起こる
〈2〉咽頭の発赤
一一月一一日 慢性喉頭炎、耳鼻科的診察の結果、声帯周辺に慢性炎症による発赤を認めるため、当分の間塵埃の多い環境での作業を避ける方がよい(被告診療室の診断書)
同月一六日 〈1〉咽頭の痛み(炎症)、〈2〉耳の痛み
〈3〉咽頭の発赤
同月一八日 〈1〉のどの発赤、〈2〉感冒
同月二六日 〈1〉毛のう炎
一二月二八日 〈1〉さんりゅう腫、〈2〉結膜炎
昭和四七年
一月一四日 急性気管支炎兼アンギーナ(口峡症)
そのころ、寒気により、喘息状態となり、就寝時にも、のどに突き刺すような痛み、せきの連続で眠れないことしばしばあり、以降、ほぼ同様の症状が続く。
二月九日 〈1〉咽頭炎、せきの発作、鼻汁、呼吸困難
同月一〇日 声帯の発赤
同月一四日 〈1〉慢性鼻カタル、〈2〉慢性咽頭炎、〈3〉慢性喉頭炎(急性増悪)
同月二三日 せきの発作、慢性喉頭炎
三月一日 慢性喉頭炎
四月四日 下痢、悪感、黄色い鼻汁、咽頭の痛み、せき、全身倦怠感、咽頭の発赤
五月一一日 のどに発赤
同月二七日 両側慢性鼻腔炎
同月三一日 咽頭炎(痛み)
六月八日 アレルギー性皮内テスト(抗原の調査)、ブタクサ、スギ、赤マツ、ペニシリウムに陽性、ハウス・ダスト、羊毛、アルテルナリア、グラドスポリウム、アルベルギルス、カンデタは一〇ミリ・メートル以内の発赤(荻窪耳鼻咽喉科の診断書)
一〇月一二日 鼻アレルギー
室内塵を抗原とするアレルギーがある為、特に室内塵の多い環境下での仕事は不適当なものと認める。
(日大病院耳鼻咽喉科の診断書)
なお、原告は、前記被告診療室の診察以来、本件解雇に至る一年間で診断、治療のため通院した回数は七一回(七一日)にのぼっており、特に、昭和四七年一月から同年四月までの間には、それが二五回に達している。
(三) 労働安全衛生法違反
労働安全衛生法六六条六号(昭和五二年法七六号による改正前のもの。)は、「事業者は、第一項から第四項まで又は前項ただし書の規定による健康診断の結果、労働者の健康を保持するため必要があると認めるときは、当該労働者の実情を考慮して、就業場所の変更、作業の転換、労働時間の短縮その他の適切な措置を講じなければならない。」旨規定している。
原告の資料室勤務は、前記のとおり、同人のアレルギー性諸疾患を悪化させることが明らかであるから、同人に資料室での勤務を命ずる業務命令は、右法規に違反し、違法、無効なものである。
2 重大な手続違反
(一) 信義則違反
解雇の手続においては、使用者側の誠意が示されなければならない。
なぜなら、解雇は、労働して賃金を得ることによって生活している労働者にとって極刑に値いするから、充分なる弁明の機会を与えられるべきである。また、組合員が解雇されると組合組織に影響を与えるので、組合としては当然組合員の地位の変動、或るいは組合組織への影響という点から、組合員の解雇問題について発言権を持たねばならない。この点から、いわゆる解雇協議約款があると否とにかかわらず、使用者としてはできるだけ組合の了解を得るように誠意を尽して解雇すべき事情を説明する義務がある。
使用者側は、解雇手続の過程でできるだけ被解雇者やその者の所属する労働組合に対して、誠意を尽さなければならないし、もし十分に解雇理由を示さないとか、弁明の機会を与えないとか、その他使用者側に誠意のない態度が認められる場合には、その解雇は労働法上の信義則に照らし、解雇権の濫用として違法、無効なものである。
(1) 具体的解雇理由を明確にせず団交を拒否した不法
被告は、本件解雇の理由を「勤務成績が著しく悪く改悛の見込みが全くない」としながらも、本件解雇の手続において、原告及び組合に本件解雇の具体的理由を一切明らかにしていない。原告を始め調査国際職場の組合員及び組合は、被告に対し、昭和四七年二月四日以降、本件解雇に至るまで、原告のアレルギー性諸疾患を悪化させる資料室勤務を命ずる業務命令の撤回等を求め、話合いや団交を要求してきた。しかし被告は、結局のところ、事実上それらを拒否し、一貫して不誠意な態度に終始し、本件解雇を行ったのである。
このように被告は、解雇の具体的理由を一切明らかにせず、しかも、組合の団交申入れも拒否してきたのであるから、本件解雇は労働法上の借(ママ)義則に反しており、違法、無効なものである。
(2) 弁明の機会を奪った不法
被告は、原告の病状について、より詳しい弁明をする機会を奪った不法がある。
即ち、被告は、原告がアレルギー性疾患の病気を理由に、資料室勤務が不可能であるので、それ以外の場所で仕事をしたいと要求し続けてきたのに対し、それを拒否し、本件解雇を強行した。原告が被告診療室の医師の診断、荻窪医院の診断、そして原告自身の病状そのものによって、そのことを訴えても、被告は何らの具体的根拠も示さずに原告の要求を拒否し、昭和四七年四月一〇日付けをもって出勤停止五日の本件出勤停止処分を内示し、懲戒委員会においても原告の病状を明らかにするために必要な証人を一人も調べずに、本件出勤停止処分を強行したのであった。
原告は、資料室勤務に耐え難い自己の病気について、社会通念上既に充分の疎明をしているのであるが、こうした被告の頑くなで非人道的な対応に対して、更に病気の原因を明確にして被告に資料室勤務ができないことについて弁明するために、日大病院耳鼻咽喉科アレルギー特殊外来において治療とともに精密検査を受けることとし、そのために病欠をとった。しかるに被告は、この精密検査の結果を待たず、本件解雇を強行した。これは原告から正当な弁明の機会を奪う行為にほかならず、この点においても被告の解雇手続における信義則違反は明白である。
(二) 労働協約違反
本件解雇は、普通解雇の形式をとっているが、実質的には懲戒解雇であり、懲戒処分の場合は労働協約により懲戒委員会での協議を要するのに、これを経ていないから、重大な手続き違反であって、労働協約に違反するものであり、違法、無効である。
以下、具体的に述べる。
(1) 本件「通常解雇」の実質は懲戒解雇
被告は、原告が
「〈1〉 出勤状態が極めて不良であるばかりでなく、
〈2〉 上司の指示・命令を無視してほしいままに行動し、
〈3〉 上司の命じた業務をほとんど履行せず、
〈4〉 この間、上司から再三、再四注意、警告されても一切無視して改めず、
〈5〉 昭和四七年八月一八日には、業務命令書を手交した上司の面前で八つ裂きにしてその頭上から振りかけるという暴挙を敢えてし、
〈6〉 また注意、警告する上司に対して「ばかやろう」「チンピラ職制」などと悪態の限りを尽くす」
ことを理由に就業規則四五条三号「勤務成績が著しく悪く改悛の見込みがない」を適用して、昭和四七年九月二七日、本件解雇をした。
ところで、被告は、本件解雇のわずか一箇月前である同年八月二五日に原告に対して本件出勤停止処分を発令した。
右処分の理由は、「貴殿は、昭和四十六年七月二十六日より資料室勤務を命ぜられたが、その後再三にわたる所属長の注意にもかかわらず、命ぜられた仕事をせずに就業時間中無断で職場を離脱し、業務を放棄し、これを注意する所属長に対しても馬鹿野郎呼ばわりするなどして上司を侮辱し、且つその業務を妨害し、正当な理由なく業務上の命令を拒否した。
上記行為は、就業規則第六十一条一号、二号、三号、第五条一項、二項、第六条三号、第七条二号に該当する。よって第六二条二号により、出勤停止五日に処する。」というものである。
本件解雇と本件出勤停止処分の理由は、いずれも、原告が資料室勤務を命ぜられて以降の原告の一連の言動を捉えたものであり、その重要な部分において全く共通しているばかりでなく、本件解雇理由は、本件出勤停止処分理由に更に個々的な事由が付加されたにすぎないものである。そうすると、本件解雇は、懲戒処分たる本件出勤停止処分を越える次の段階の懲戒処分である「免職」処分、即ち、懲戒解雇としての性格を有しているものとみざるを得ない。
したがって本件解雇は、実質的には懲戒解雇である。
(2) 懲戒委員会設置・審議を免がれるための手段
被告が本件解雇を懲戒解雇ではなく、普通解雇の形式をとったのは、本件出勤停止処分との関連で、本件解雇の二重処分性(二重の懲戒処分)がより明白になることを避けたためであるとともに、労働協約で義務付けられている懲戒委員会の設置を回避するためである。
なお、被告と組合の間には、次の昭和三七年一二月一〇日付け懲戒委員会設置に関する覚書が締結されている。
「1 会社が組合員を懲戒処分に付するときは、すくなくとも七日以前までに組合に通告する。
2 組合員の異議申し立てがあった場合は懲戒委員会で協議する。
異議の申請は通告の日から五日以内とする。
この申請のないときは承認したものとみなす。
3 懲戒委員会は労使同数で構成し、協議中は発令しない」
(3) 潜脱は脱法行為であって許されない
しかしながら、被告は、懲戒解雇の場合には前記覚書の協議約款により組合員の異議申立てを前提として懲戒委員会設置が義務付けられているにもかかわらず、原告に対して、実質的には懲戒解雇であるのに、右手続を回避するため普通解雇の形式をとったものであり、これは労働協約の潜脱を意図した脱法行為であることは明らかである。
そうすると、本件解雇は右の手続を経ていないので、重大な手続違反であり、労働協約違反であって、無効である。
(三) 二重処分
同一事実を理由とする処分は就業規則適用における一事不再理の原則により一回限りしか許されない。それに反して後に行われた処分は、違法、無効なものである。
ところで、前述のとおり原告は、本件解雇処分を受ける前に本件出勤停止処分に処せられた(内示は、昭和四七年四月一〇日、発令が同年八月二五日)。
被告は、本件出勤停止処分の理由として、業務命令拒否、職場離脱等を掲げているが、それは本件出勤停止処分から本件解雇に至る継続した経過をみれば、同人が資料室での勤務を命ずる業務命令に従わなかった事実を処分理由として具体化したものにほかならず、そのことは本件解雇の場合と同一としか考えられない。
つまり被告の挙げている本件出勤停止処分の理由と本件解雇の理由を比べてみればその重要な部分は、全くといってよいほど共通であり、実質的には同一のものなのである。
そうである以上、原告は、昭和四七年八月二五日発令の本件出勤停止処分(第一次処分)終了時である同月三一日から一箇月未満の同年九月二七日に、全く同一の事由で本件解雇処分(懲戒解雇=第二次処分)を受けたことになる。
それゆえ、通常解雇の外形をとっていても、本件解雇が二重処分であることには変わりはなく、こうした二重処分がそれ自体違法、無効であることもまた明白である。
(不当労働行為)
原告は、組合の組合員であるところ、本件解雇は、被告が原告の活発な組合活動を嫌悪して行った不利益取扱いの不当労働行為であり、同時に組合の組織弱体化を意図した支配介入の不当労働行為であるから、労働組合法七条一、三号に違反し、違法、無効である。
1 組合の活動
組合は、昭和三六年六月結成以来、職場闘争及び情宣活動を重視し、かつ、下請関連の未組織労働者の組織化に取り組み、これらを特徴として活発に活動してきた。その結果、組合は、昭和四四年ころまでには、賃金のほか労働時間・休日・休暇・母性保護・福利厚生・組合活動の権利等について民間放送各社中最高水準のものを獲得するに至り、組合の加盟する日本民間放送労働組合連合会(以下「民法労連」という。)傘下の各労働組合の目標とされるまでとなった。
2 原告の組合活動
原告は、入社直後の組合結成と同時に加入して組合員となり、次のとおり役員を歴任して活発に組合活動に取り組み、これを発展させた。
組合の役員歴としては、昭和三七年九月、編成職場委員に、昭和三八年一月、編成職場代議員に、そのころ、編成局時短委員に、同年四月、共闘委員及び番組対策委員に、昭和四〇年八月、書記次長に、昭和四一年八月、執行委員に、昭和四二年一一月、拡大中央闘争委員に、昭和四三年八月及び昭和四四年七月、執行委員に、同年一〇月、経営分折(ママ)委員に、昭和四五年八月、広報職場委員及び経営分折委員に、昭和四六年八月、調査国際職場委員に、昭和四七年一月、調査国際職場代議員に就任した。また、民放労連の役員歴としては、昭和三八年及び昭和三九年各九月、民法労連関東甲信越地方連合会(以下「関東甲信越地連」という。)執行委員に、昭和四三年、関東甲信越地連未組織対策委員に就任した。なお、このほかに、千代田区労働組合協議会の常任幹事や事務局長などにも就任した。
原告の具体的な組合活動のうち、主要なものは次のとおりである。
(一) 職場闘争
原告は、昭和三七年九月、編成職場委員に選出されて以来、執行委員などとして一貫して職場の要求を実現する活動の先頭に立ってきた。
昭和三九年から昭和四〇年にかけて、編成局広報部の職場において嘱託の小寺一司を社員化する闘争が展開されたが、原告はその闘争の先頭に立ち社員化を勝ち取るために貢献した。
昭和四一年九月から一〇月にかけて、ニュースのカラー・ワイド化に伴う報道局の職場の合理化反対・人員増加要求闘争が起こった。報道職場では職場討議を積み重ねたうえ、職場団交を集中的に持ち、ついには組合は、一職場の問題解決の手段としては初めてストライキ権を行使して一〇月三一日に一時間、合理化反対のストライキを決行した。原告は、報道局担当の執行委員として右の闘争を指導した。
原告は、昭和四六年七月調査職場へ配置転換されたのちも、資料室の拡充・閲覧室の設置・事務職員の居室と本棚部分との分離・隔壁の設置・クリーンヒーター新設・ガス湯沸器取替えなどの職場要求を勝ち取った。
(二) 未組織労働者の組織化
未組織労働者を組織化する闘いは、原告が最も力を注いだ活動分野であり、執行委員としても他の者以上に系統的にこの闘いに関与した。
原告は、昭和三八年から三年間民放労連のオルグとしてフジテレビの労働組合の結成を援助し、ついにフジテレビ労働者は、昭和四一年五月二六日、労働組合を結成した。
昭和四四年三月二九日、民間放送各社に働く下請労働者を中心として個人加盟の民放労連東京地区労働組合が結成された。原告は、下請労働者の労働条件の改善をめざして活動するとともに、右労働組合の結成を指導し、その結成後も組合の未組織対策委員会の責任者として下請労働者の要求実現の先頭に立った。
(三) 情宣活動と経営分折
原告は、情宣活動にも積極的に取り組んだ。特に昭和四四年一〇月、被告の粉飾決算が暴露されて以降、組合に専門部として経営分折委員会が設けられたが、原告は、その委員として被告の不況宣伝・思想攻撃に反撃する情宣活動を様々に展開した。「粉飾決算シリーズ」、「株主総会てんまつ記」、「不況宣伝くそくらえシリーズ」、「『決断』をキル」、「あしあと、あしおと」などは原告の代表作である。そして、昭和四六年、被告が赤字決算をでっち上げ組合弱体化の攻撃を行ったのちは、組合ニュースへの投稿を更に強化し、被告の会社ニュースが同年一〇月一三日から出され初めたのに対抗して、翌一一月二二日には「週間サインペン」を創刊し、被告の不況宣伝に反撃を加えた。
3 被告の組合弱体化の意図
被告は、昭和四五年五月、その代表取締役社長に小林与三次が就任した直後から組合弱体化の意図を露骨に示し、社内報等を駆使して宣伝を始めた。そして、被告は、昭和四六年一〇月、第三五期(同年九月期)決算において、意図的に赤字決算をでっち上げ、それを口実にして不況宣伝を行い、企業危機感をあおり、組合の獲得した成果や労働者の諸権利を剥奪して組合を弱体化させるため一連の不当労働行為を行った。すなわち、小林社長は昭和四六年から昭和四七年にかけて組合弱体化の意図をもって組合攻撃の発言を繰り返し、また、被告は、昭和四六年一一月一七日、年末一時金について前年同期に比べ九万円ないし一七万円減額となる回答を行い、一時金についても不就労減算(ダブル賃金カット)をしようとし、傷病減算も導入してきた。さらに、上限三〇パーセントのプラス査定を導入し、賃金差別によって組合の団結を弱体化させようとした。また、被告は、昭和四七年三月三一日、組合の春闘要求に対し、賃上げを行わないとする回答をし、同時に査定の大幅拡大・賃金体系の改悪・時間外割増手当と深夜割増手当の五パーセントカット・欠勤減算の導入・時間内組合活動の賃金カット(従来は、手持ち時間での組合活動は自由であった。)・通勤手当の七〇キロ頭打ち等、賃金をすべての面で切り下げようとする回答をした。そして、被告は、組合が抜打ちストライキをやめれば考慮するとして組合のストライキ権を制限しようとする意図から前年の年末闘争では断念したダブル賃金カットを昭和四七年夏季一時金から強行した。
被告は、昭和四六年一一月三〇日早朝、本社正面玄関前に四三六本の丸太を積み上げ、組合に対しロックアウトの脅迫をし、翌一二月一日の組合のピケットに対し、昭和四七年三月三一日、組合役員五名に対し、出勤停止六日から一日の懲戒処分の内示を行った。また、被告は、昭和四七年三月九日から同月三一日にかけて、組合に対し、勤務協定や休日休暇協定など合計一四の労働協約の破棄を通告し、その後、同年六月一五日、就業規則の改定を提案して、懲戒事由を細分化・具体化し、これに対応して懲戒処分をきめ細かく具体化するなどして組合活動を更に規制することを狙った。
4 本件解雇の不当労働行為性
被告は、前記のような組合活動を行ってきた原告を嫌悪し解雇の機会を狙っていた。被告が原告の資料室勤務に固執したのも、原告がその健康状態から遂行不可能なため従わないことを期待したからであり、従わないことを口実にして本件解雇を行ったのである。また、被告は、組合に対し、その弱体化のため前記のとおり様々な不当労働行為を行ったが、その総仕上げとして原告に対する本件解雇を行ったのである。
六 再抗弁に対する認否
(解雇権濫用)について
1 1(業務命令の違法、無効)について
冒頭の主張は争う。
(一) (一)の事実中、昭和四七年二月三日ころ、原告と石川専門部長が話し合ったこと、被告が原告に対し、同月四日、同月八日等たびたび資料室内で勤務することを命じたことは認めるが、その余は否認する。
(二) (二)の冒頭の主張は争う。
同(1)の事実は否認する。
同(2)の事実中、資料室が本社ビル前の地学会館の一階にあること及び資料室に関して組合から「資料室を本社屋内に移転すること」とか「その内容を拡充整備すること」を要求してきたことがあることは認めるが、その余は否認する。
同(3)の事実中、原告の主張する診断結果を除いた点については否認する。原告の主張する病因を資料室のハウス・ダストにあるとする点の医学的証明は全く存在しない。
原告の主張する診断結果についての認否は次のとおりである。
昭和四六年九月二二日の件は知らない。
同月二八日の件は認める。
同年一〇月一日の件のうち、鼻炎と診断されたことは否認し、その余は認める。
同月二一日の件は知らない。
同年一一月一一日の件は認める。
同月一六日、同月一八日、同月二六日及び同年一二月二八日の件は、いずれも認める。
昭和四七年一月一四日、同年二月九日の件は知らない。
同年二月一〇日の件は認める。
同月一四日、同月二三日の件は、いずれも知らない。
同年三月一日の件は、「慢性喉頭炎の症状好転すれどもなお咳、痰からまる」が診断結果である。
同年四月四日の件は、次の点を除き認める。下痢はなし、せきはなし、全身倦怠感は少々であって、このほか「痰なし」というのが診断結果である。
同年五月一一日の件は、「のどの発赤減少」が診断結果である。
同月二七日の件は知らない。
同月三一日の件は認める。ただし、ほかに「主症状は下痢」が診断結果である。
同年六月八日の件は認める。
同年一〇月一二日の件は知らない。
原告が通院した回数は知らない。ただし、被告診療室へは五三回、このうち、昭和四七年一月から同年四月末日の間は八回きている。
(三) (三)の主張のうち、原告引用の法条の存在は認めるが、その余は否認する。
原告は、再抗弁1(二)、(三)において、要旨、「被告は、原告の鼻アレルギーを無視して塵埃の多い資料室での勤務を強制しようとしたが、そのような業務命令は違法、無効であるからその違反につき原告に責任はない。」旨主張する。しかし、(一)鼻アレルギーのトリアス(三主徴)は、〈1〉くしゃみ、〈2〉鼻みず、〈3〉鼻づまりであるが、原告にはこれがみられない。原告のアレルギーは即時性(アレルゲン吸入後一〇分位たてば発病する。)であると主張するが、本件訴訟における検証の際も、原告は、一時間以上にわたって資料室に在室したのに何らの症候も発現していない。原告が鼻アレルギーを強調し始めたのは、本訴提起後である。在職中原告を診察した耳鼻咽喉科専門医の佐藤医師もアレルギー鼻炎とは診断していない。(二)昭和四六年一一月一一日付け診断書(〈証拠略〉)の病名は「慢性喉頭炎」であるが、「当分の間、塵埃の多い環境での作業を避ける方がよい。」との附記があったので、その診断をした佐藤医師に資料室を実地に検分してもらったところ「この程度なら問題はない。」との確認を得たことは、前述(抗弁2(二)(12))のとおりである。昭和四七年九月一一日被告が財団法人東京都予防医学協会健康サービスセンターに依頼して実施した環境調査結果によっても、資料室の浮遊塵は、調査部、テレ・シネ室、報道部、制作局、編成局等地の職場より少いことが実証されており、原告の資料室勤務拒否には正当な理由がないとの被告の確信を裏付けている。(三)そもそも、被告が原告を解雇した理由は、前述のとおり、出勤状態が極めて不良であるばかりか、上司の命令を無視し、業務命令書を八つ裂きにして上司の頭に振りかけ、上司に対し「ばかやろう」「チンピラ職制」などと悪態の限りを尽す等の原告の言動の全体から、従業員として上司の指揮命令に従って誠実に労務を提供する意思が全くないとの判断に達したためであって、単に資料室勤務拒否を理由とするものではない。
2 2(重大な手続違反)
(一) (一)の冒頭の主張は争う。なお、被告と組合との間には、いわゆる解雇協議約款は存在しない。
同(1)の主張は否認する。
同(2)の事実中、被告が原告に対し、本件出勤停止処分を内示、発令したこと、本件解雇したことは認めるが、その余は否認する。
(二) (二)の冒頭の主張は争う。
同(1)の事実中、被告が原告に対し、本件出勤停止処分及び本件解雇をし、その理由がそれぞれ原告主張のとおりであることは認めるが、その余は否認する。
同(2)の事実中、被告と組合の間に、原告主張のとおりの覚書が締結されていることは認めるが、その余は否認する。
同(3)の事実は否認する。
(三) (三)の事実中、被告の原告に対する本件出勤停止処分の内示が昭和四七年四月一〇日、発令が同年八月二五日、また、本件解雇の発令が同年九月二七日であることは認めるが、その余は否認する。
(不当労働行為)について
冒頭の主張は、否認する。
1 1(組合の活動)の事実は知らない。なお、組合が種々獲得した労働条件等の評価については被告の関知しないところである。
2 2(原告の組合活動)の事実について
原告の組合加入の時期及び役員歴については、原告がその主張のとおり、書記次長・執行委員・拡大中央闘争委員に選出され就任したことは認めるが、その余は知らない。
原告の具体的な組合活動については、(一)のうち、原告が調査職場へ配置転換されたことは認めるが、資料室の拡充等の事柄が原告の活動により実現されたことは否認する。(三)のうち、その主張のとおり被告の粉飾決算が明らかとなったこと及び赤字決算となったことは認めるが、被告が組合弱体化の攻撃を行ったことは否認する。(一)ないし(三)のうち、その余は知らない。
3 3(被告の組合弱体化の意図)については、その主張のとおり、被告の代表取締役社長に小林与三次が就任したこと、赤字決算となったこと、昭和四六年の年末賞与につき前期に比べて約八万円の減額をせざるを得なかったこと(それでも一般産業の平均に比べればはるかに高額であった。)、被告は、右年末賞与の回答の際、成績査定や不就労減算の導入を提案し、組合と協議ののち、成績査定は実施し、不就労減算は次の夏季賞与から実施するとしたこと、昭和四七年春闘に際し、組合に賃金体系の改定と賃金に関する査定の導入・割増手当の減額・欠勤減算の導入等を回答し、その後、組合と交渉の中で修正し妥結したこと、丸太を積み上げたこと、組合役員五名に対し出勤停止処分の内示を行ったこと、労働協約の一部を解約したこと、就業規則の改定を提案したことは認めるが、その余は否認する。
4 4(本件解雇の不当労働行為性)については、否認する。
第三証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録、証人等目録記載のとおりであるからこれを引用する。
理由
一 請求原因1及び抗弁1(解雇)の各事実は、当事者間に争いがない。
二 本件解雇に至る事実経過
本件解雇の理由として被告の主張するところは、「原告の勤務成績が著しく悪く改悛の見込みがない」ことであるが、そのような評価の対象として被告が主張するのは、昭和四六年七月二六日の資料室への配置転換から翌年九月二七日の解雇に至るまでの一年二箇月間にわたる原告の勤務態度である。被告主張事実は、詳細かつ多岐にわたっているが、概括的にいえば、出勤状態の極度の不良と上司である資料室担当石川専門部長、その上の上司である小里調査部長、更にその上の上司である松本編成局長兼専務取締役に対する指示・命令無視、反抗的態度の継続である。以下右の点に関する被告主張事実の存否について検討する。
1 資料室への配置転換
被告が原告に対し、昭和四六年七月二六日、編成局広報部から同局調査部調査課へ配置転換する旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがない。
右争いのない事実に、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができ、この認定に反する原告本人尋問の結果(第一回)の一部は信用することができない。
被告は、昭和四七年七月を目途として、全社的な職制組織の改正、人事異動を計画し検討中であったが、この計画には資料室の体制強化も含まれていた。右組織改正等は、同月二六日、実施された。この結果、資料室は編成局調査部調査課に属し、また、その責任者として、ラインの調査部長の指揮下に特命の専門部長が置かれることとなった。なお、同日、調査部長兼調査課長に小里光が、また、資料室担当の専門部長に石川利男がそれぞれ就任した。
原告は、昭和三八年六月一日以降、編成局広報部に勤務してきたが、昭和四六年六月上旬ころ、資料室への配置転換を希望し、これを中平公彦編成局次長に申し出、また、同月中旬ころには、梶原隆課長を通じて岸田功広報部長に同様の希望を申し出た。被告は、原告の希望を入れ、原告を資料室に配置転換することとし、原告に対し、昭和四七年七月一九日、その旨内示したうえ、同月二六日、編成局調査部調査課へ配置転換する旨発令し、組合に対しても、同日付けで右配置転換を実施する旨をその他の人事異動と合わせて通知した。
同日、配置転換発令後、小里調査部長の招集により調査部会が開かれ、同部会で、同調査部長は、原告に対し、資料室勤務とし、同室の責任者である石川専門部長の指揮下に入る旨を指示した。
2 資料室における原告の勤務状態(証拠判断略)
(一) 配転後昭和四七年二月初旬までの原告の勤務状態と石川専門部長の指示命令に対する態度
(1) 石川専門部長は、原告の資料室における勤務時間を一〇時から一八時までとし、また、その担当業務については、将来の資料室拡充のための研究を行うこと、そのために、まず、資料室の日常業務を覚えてもらうこととした。そして、同専門部長は、昭和四六年八月一二日、資料室会議の席上、原告に対し、その担当業務として、貸出期限の過ぎた図書の回収と図書の内側に貼る貸出伝票の整理を行うこと、また、右の業務を行いながら将来の資料室の在り方を考え、そのため他局の資料室を調査して報告書を提出することを指示した。
(2) 被告は、従業員の出退勤の記録については、組合の合意を得て、昭和四五年一一月から出勤表制度を実施し(右のとおり出勤表制度が実施されたことは当事者間に争いがない。)、毎月一日から一五日の前半と一六日から月末の後半の二部に分かれた出勤表(出勤表が右のとおり二部に分かれていることは当事者間に争いがない。)に毎日本人が出退勤時刻を記入し、また、休暇などについては所属長の承認を得たのち、所属長又は本人が記入することとしていた。
しかし、原告は、資料室に勤務することとなって以来、毎日出勤表に記入することをしなかった。そこで、石川専門部長は、昭和四六年八月一七日、原告に対し、出勤表に毎日記入するよう注意し、指示したところ、原告は、広報部勤務時代は一五日と月末の二回それぞれ一度に記入する習慣となっていたから、それでいいだろうと反発し、従おうとしなかった。
また、原告は、出退勤時刻を守らなかったことから、同日、同専門部長が原告に対し、これを厳守するよう注意したところ、原告は、「今までは勤務がルーズだったので、朝早く起きられない。」というので、同専門部長は、原告の前記勤務時間を確認するとともに、重ねて右時刻を厳守するよう注意した。
さらに、原告は、他局の資料室の調査に行く際など外出に際して、同専門部長に届けることをしなかったことから、このころ、同専門部長が原告に対し、この点について注意したところ、原告はこれにも反発し、従おうとしなかった。
(3) 同月二三日、資料室会議が開かれた際、その席上、石川専門部長が原告に対し、未回収書籍の回収、整理の進行状況について報告を求めたところ、原告は、「なかなか大仕事だ。」というので、同専門部長が進行を催促すると、原告は、「こういうことは慣れているから私にまかせろ。」などと答えるのみで具体的な報告をしなかった。
(4) 同月三〇日午後三時ころ、資料室会議の席上、石川専門部長が原告に対し、各社資料室の調査結果の提出を求めたところ、原告は、激昂した態度で、まず資料室の部屋を地学会館から本社ビルに移し職場環境及び利用上の改善をすることが先決だと強く主張した。これに対し、同専門部長が当面それは我慢せざるを得ないこと、したがって、他の方法による改善案を出すよう求めたところ、原告は、「だからあんたはだめなんだ。我々はこの部屋に長く住む気はない。よく考えろ。」などと詰め寄り、最後には「あんたにはいくら話しても無駄だ。俺はこんな空気の悪いところで仕事はしたくない。」といって、会議の途中にもかかわらず勝手に席を立って退室してしまった。そして、原告は、同日ころから資料室には時々顔を出す程度で、ほとんど居着かなかった。
石川専門部長は、このように、原告が同専門部長の指示、命令に従って仕事をしないばかりか、無断で離席したり、休んだりするため、その対応に苦慮し、同年九月に入って、小里調査部長とともに人事局に赴き相談した。その結果、人事局は、石川専門部長の指導によって原告の勤務態度を改善させるようにと指示し、併せて原告の勤務状態の問題点につき、メモを取って報告するよう指示した。
(5) 同年九月一七日、石川専門部長は、原告の同月前半(一日から一五日)の出勤表が全く記入されていないことを知り、資料室にいた原告に対し、出勤表には毎日記入するよう強く求めた(同日、同専門部長が原告に対し出勤表には毎日記入するよう求めたことは当事者間に争いがない。)ところ、原告は一括して記入したうえ、同専門部長に提出しないで、勝手に小里調査部長のもとに提出した。なお、原告の出勤表は、資料室の他の同僚のものと一緒に綴られて資料室に置かれ、所属長である石川専門部長が管理していた。また、原告は、休みを取る際、同専門部長に連絡せず、資料室の同僚に電話で連絡するのみであったので、同専門部長は、同日、原告が資料室に戻ってきた際、休みを取るときは、同専門部長に連絡するかあるいは同専門部長に連絡するように伝言することと注意したところ、原告は、広報部勤務の際の慣習を理由に反抗し、従おうとしなかった。
(6) 同月二〇日、石川専門部長が原告に対して、資料室会議の打合わせに基づいて、他の資料室員谷川弘子の手伝い(図書の整理)を命じたところ、その打合わせの際出席していなかった原告は、不在の間に担当業務を決めたことを不満とし、「僕がいないときに話合いをするなんてでたらめだ。こんなやり方では協力できない。僕はこの部屋にいると気分が悪くなる。調査部に行く。」などといって勝手に資料室から出ていってしまい、右手伝いはその後も全くしなかった。なお、右打合せは原告が勤務を休んだことから原告を除く資料室員全員により行われたものであった。
(7) 石川専門部長は、かねてから総務局管理部長矢橋実に資料室の改善について要請していたが、同年一〇月二九日から三日間をかけて事務室と閲覧室を仕切り分離するなどの改装工事が行われることとなった。そこで、石川専門部長は、小里調査部長の出席を得て、同月二〇日午前一一時ころから資料室会議を開き、その席上、右改装工事とこれに伴って必要となる図書の移動について説明し(同日、資料室会議が開かれ、その席上、石川専門部長が右説明をしたことは当事者間に争いがない。)、さらに、その際クーラーも移設することを提案した。これに対し、原告は、いきなり立ち、「我々は来年夏までこの部屋に居る気は全くないのでクーラーの移設は考えられない。僕は協力しない。」などと反抗した。さらに、原告は、工事が遅れた、その原因は石川専門部長にあるとし、同専門部長に対し、「謝れ。」「だからだめなんだ。反省しろ。」と怒鳴り、会議中にもかかわらず、勝手に退室した。なお、小里調査部長が資料室会議に出席したのはこれが初めてであったが、これは原告の態度があまりにひどく、石川専門部長の手に負えないとして、同専門部長から要請があったことから、また、みずからその確認を兼ねて、出席したものであった。
その後(同日)、石川専門部長が、小里調査部長とともに、右会議の経過を話すため、本社ビルに赴き、編成管理部長泉川康雄と相談しようとしたところ、そこへ原告が現れ、石川専門部長に対し、クーラーの移設工事はやらないと約束しろ、このくらいの事すぐ返事できないのかと詰め寄り、さらに、改装工事が遅れた責任を取れと怒鳴った。
また、同日午後一時四〇分ころ、原告は、石川専門部長に電話をし、資料室の改装工事が遅れた責任を取れなどと怒鳴り、一旦切った後、再度電話をして、「資料室の仕事に私が食い込むことは年輩者(定年後嘱託採用の滝本緑)を追い出すことになる。会社側の腹は見え透いている。私は今後一切資料室の仕事はやらない。図書の移動にも手を出さないから、そのつもりでいてくれ。」などというので、同専門部長は、「そういうことは電話で話すことではない。私の部屋へ来て話しなさい。」と注意したが、原告は、「私は新聞の切抜きや、その他の問題で考える。仕事の報告は時期をみて出す。」などといって一方的に電話を切ってしまった。
(8) 石川専門部長は、原告を民放連主催の資料管理者セミナーに出席させることを検討していた。そこで、同月二二日午前、資料室会議が開かれた際、同専門部長は、原告に右セミナーの資料を渡し、検討のうえ出席する場合には同専門部長に申し出るよう指示した。同日午後二時過ぎ、原告は、本社ビル内の調査部の事務室から同専門部長に電話をし、右セミナーに出席することとしたのでその旨記載した文書を小里調査部長に提出する旨連絡してきた(右日時ころ、原告が石川専門部長に電話で右セミナーに出席すると連絡したことは当事者間に争いがない。)。これに対し、石川専門部長は、同専門部長のところへ来て話をするよう注意したが、原告は、「そこには行かない。小里部長の机の上に置いておく。」などといって電話を切ってしまった。
このころから原告は、資料室会議には出席するものの、その他には資料室ではほとんど勤務せず、本社ビル内の調査部の事務室にたびたび現れるので、小里調査部長は、原告に対し、石川専門部長の指示に従い、資料室で勤務するよう注意したが、原告はこれに従わなかった。
(9) 同月二五日午前一一時二〇分ころ、石川専門部長は、原告の勤務態度を改善させるため、調査部事務室にいた原告に電話をし、小里調査部長と同席のうえ資料室で話し合おうといったところ、原告は、編成応接室でなら話合いに応ずるとのことであった(右日時ころ、石川専門部長が調査部事務室にいた原告に電話をし、小里調査部長と同席で話し合おうといったこと、これに対し原告が右のとおり応答したことは当事者間に争いがない。)。石川専門部長は、原告に、そこで待つよう指示し、午前一一時五〇分ころ、原告を捜したが所在不明であった。その後、同専門部長は、午後二時五五分ころ、原告が調査部事務室にいるのを見かけ、組合の時限ストライキの終了する午後三時を待ったところ、原告は、その直前に退室し、以後所在不明となった。このため、同専門部長は、同日、原告と話し合うことができなかった。
(10) 同月二七日午前一〇時五〇分ころ、原告から石川専門部長に電話があり、翌二八日から始まる資料管理者セミナーの会費の請求をしたいとのことであった。これに対し、同専門部長は、原告に対し、原告の同セミナーへの出席を取り消す旨伝えるとともに、その所在を尋ねると、原告は調査部事務室にいるとのことであった。そこで、同専門部長は、小里調査部長とともに話したいことがあるので連絡するまでそこにいるよう指示したが、原告は、「あんたと話し合うことはない。部屋ができてから話し合おう。」などといって従わず、石川専門部長が小里調査部長と連絡を取り、午前一一時過ぎ、右事務室に赴いた時には、原告は既におらず、所在不明となっていた。
なお、被告は、同月二九日から三日間をかけて、資料室の前記改装工事を行った(この事実は当事者間に争いがない。)。
(11) 原告は、一〇月後半分の自己の出勤表を無断で資料室綴りから取り外し(原告が自己の出勤表を資料室綴りから取り外したことは当事者間に争いがない。)、調査部事務室に持っていっていた。小里調査部長は、これを石川専門部長に渡し、同専門部長がこれを保管していたところ、原告は、同年一一月四日午前一〇時四〇分ころ、同専門部長に電話をし、いきなり「出勤表を持っていっては困るな。」と抗議した。また、その際、同専門部長が原告に対し、仕事の話もあるのですぐ資料室に来るよう指示したが、原告は、これに従わなかった。
(12) 同月九日、資料室改装後の初めての資料室会議が小里調査部長同席のもとで開かれた。その席上、石川専門部長は、原告に対し、右改装により多量の図書が移動したことに伴い、これを整理しなければならないので、従前指示した業務はすべて撤回し、新たに図書の移動整理を行うよう命じた。これに対し、原告は、資料室はほこりも多く、同室では原告は身体の具合が悪いので、咳が出、胸が痛むため、仕事はできないというので、同専門部長は、身体のことは医者に診てもらうか厚生部長に相談するよう述べた。また、原告は、小里調査部長に、資料室で仕事をするのは無理なので原告を調査課にまわして欲しいと要望した。同調査部長は、それには医者の診断書を提出するよう指示し、一度厚生部長に相談することを勧めたところ、原告は、「厚生部長と相談しろだと。そんなことするか。医者の診断書といったって、僕の身体のことを医者がわかるか。」と反抗的な態度をとった。そして、石川専門部長が原告に対し、出勤簿には毎日記入すること、欠勤、早退、遅刻をするときや席を離れるときは、同専門部長に届けることを命じたところ、原告は、「うるさい。」と怒鳴り返し、従おうとしなかった。
(13) 同年一二月一二日、当日は日曜日で休日であったが、石川専門部長は、組合のストライキに対する被告の対策要員として、報道局の事務室で勤務していた(同日、同専門部長が右要員として出勤し、午後八時ころ、右事務室にいたことは当事者間に争いがない。)。そこへ、午後八時ころ、突然原告が現れ、同専門部長に対し、「ばかやろう。」と怒鳴り、なおも、近づいて、「ばかやろう。おまえはばかだ。」と怒鳴った。同専門部長が「ばかとはなんだ。」と言い返すと、原告は、さらに、「おまえは、俺をどうしようとするんだ。あんなほこりのひどい所で本を整理しろとは。そんなことができるか。よく考えろ。おまえはばかだ。」といって、同専門部長に詰め寄った。その際、戸沢報道局管理部長、鈴木同部次長待遇が中に入り、また、中平同局次長が来て原告を連れていったため、ことなきを得た。
なお、原告は、一二月はほとんど資料室には在室せず、また、石川専門部長の指示には従わなかった。
(14) 昭和四七年一月六日、新年最初の出勤日、原告は、午前一〇時ころ、資料室に出勤したが、石川専門部長が午前一〇時一〇分ころ出勤し、資料室員全員に挨拶するのを見かけると、黙って退室し、そのまま戻らなかった。
なお、小里調査部長は、原告が石川専門部長に反抗的でその業務命令に従わない状態が続いているので、これを解決するため、同日、原告を呼び、その意向を聞くとともに原告を説得したところ、原告は、資料室はほこりが多く健康状態から勤務に耐えられない、また、同専門部長とは心理的にも付き合えないと述べ、資料室勤務を避けたがった。しかし、小里調査部長は、なおも原告に対し、資料室で勤務するよう強く説得したが、結局、話合いは物別れに終わった。そこで、同調査部長は、同月八日、上司の北川編成局次長と原告の件を相談したところ、今後は人事局と十分協議のうえ処理するよう強くいわれた。小里調査部長は、これまでも数回人事局と協議してきたが、北川編成局次長との右話合いの結果を受け、同月末から翌二月にかけて、石川専門部長とともに更に数回人事局と原告についての対策を協議した。
(15) 同年一月七日、一〇日、一一日の各日、原告は、資料室の同僚に(七日は滝本緑、一〇日は谷川弘子、一一日は丸山千恵子)に電話で父の入院見舞のため遅刻する旨を連絡し、午前一一時三〇分ころ一旦は出勤したが、間もなく石川専門部長に連絡をしないで退室し、そのまま戻らなかった。
(16) 同月一七日、一八日の両日、原告は、資料室では勤務せず所在不明であった。また、同月一九日、原告は、無断で遅刻し、午前一〇時三〇分、一旦は資料室に出勤したが、間もなく黙って退室し、そのまま戻らなかった。
(17) 同月二〇日午前一〇時一五分過ぎ、石川専門部長は、原告の一月前半の出勤表の記載と実際の出勤時刻が違っていたので、原告に対し、その旨を指摘し、五分程度のことは別だが一一時三〇分ころ出勤しながら一〇時出勤と記入することは認められないから訂正するよう指示したが、従わないので、再度指示すると、原告は、「出勤表は賃金計算だけのものだ。文句をいうな。」と反抗し、なおも従わなかった。そこで、さらに、同専門部長は、出勤表は毎日記入すること、席の離脱は必要以外してはいけない、もし離れることがある場合には机上にメモをし部屋の人に断っていくこと、書庫内の本を棚別にチェックし再整理をすることを指示したが、原告は、これに答えず、小里調査部長と話をするといって退室した。その後、原告は、原告の一月後半の出勤表を資料室員の綴りから勝手に外して調査部に持参し、小里調査部長に対して、「資料室では仕事をしないから、こっちに置く。」と申し出たが、同調査部長は、これを拒否した。
(18) 同月二一日、原告は、小里調査部長不在の間に、同調査部長の机上に、「もう資料室へは勤務しない」旨の書置きを残した。そして、原告は、同日以降、資料室にはあまり顔を見せなくなった。
(19) 同月三一日、原告は、小里調査部長に対し、資料室勤務ではなく、同調査部長が原告に直接業務命令を出すよういってきた。
(20) 同年二月一日、原告は、小里調査部長が「君は資料室勤務だから石川専門部長のもとで命ぜられた業務をしなさい。」と指示したのに対し、「仕事は会社のほうで頭を下げて頼みにくるものだ。」といって、指示に従わなかった。
(二) 業務指示者の変更と小里調査部長の指示命令に対する原告の態度
(1) 前記のとおり、人事当局は、原告についての対策を小里調査部長、石川専門部長と協議してきたが、同年二月初旬、協議の結果、原告に対する業務指示者を小里調査部長に変更することとした。これは、一方で、石川専門部長が原告との対応に苦慮し、侮辱と暴言によって精神的に困ぱいしており、更に同専門部長に原告に業務命令を出させることが酷と判断され、他方、原告においても同専門部長とは心理的にも付き合えないと述べたことから、これらを考慮し、原告の勤務態度の改善を期待して採られた措置であった。また、同時に、小里調査部長から原告に対し資料室において他社資料室の調査結果を報告書にまとめて提出するよう命ずること、さらに、原告が右業務命令に従って報告書を提出し被告の業務命令に従う態度を示したならば、当時原告は調査課業務への担務変更を希望していたことから、右希望を認めることを検討することが決まった。なお、右報告書の作成は、原告が既に調査した結果をまとめるにすぎず、二、三日もあればできるものであり、原告は、株式会社東京放送の資料室の調査結果については、既に簡単ながら報告書を作成して提出していた。
そこで、同月四日、小里調査部長は、調査部事務室において、原告に対し、今日から同調査部長が業務命令を出す旨を伝え、そのうえでメモをみながら、資料室において右報告書を作成し、提出するよう命じた(同日、同調査部長が原告に対し右報告書の作成等を命じたことは当事者間に争いがない。)。これに対し、原告は、吉良元孝ら調査課の同僚とともに、身体の具合が悪いのでほこりの多い資料室では勤務できないなどと抗議して従わなかった。このため、山中人事局人事部部次長待遇が同事務室に赴く事態となった(同人事局人事部部次長待遇が同事務室に現れたことは当事者間に争いがない。)。
(2) 同月八日午前一〇時三〇分ころ、小里調査部長は、原告が調査部事務室に現れた際、石川専門部長を呼び、その立会いのうえ原告に対し、資料室において前記報告書及び資料室の改善案をまとめ、これを同月一四日までに提出するよう業務命令を出した。すると、原告は同専門部長に向かって怒鳴り出し、また、吉良ら調査部の同僚も右命令に抗議した。このため、山中人事局人事部部次長待遇、遅れて作間人事局次長が同事務室に赴く事態となり、右命令をめぐって午前一二時近くまで言争いとなった(右のころ、同事務室に小里調査部長と石川専門部長がいたこと、小里調査部長が原告に対し前記報告書を資料室でまとめるよう命じたこと、山中人事局人事部部次長待遇と作間人事局次長が現れたことは当事者間に争いがない。)。
同日夕刻、原告は、小里調査部長が泉川編成管理部長と話し合っているところに現れ、「あのようなわからない事は受けられない。」といって去った。
(3) 同月九日午後、小里調査部長は、編成局の応接室において、原告に対し、前日の業務命令を確認して指示したが、原告は、「あの場所ではできない。」と拒否した。そこで、同調査部長は、前記の人事当局との協議結果に基づいて、「将来、調査課の業務を考えてもよいが、それには現在の業務命令に従え。」と述べ、説得に努めたが、原告は、応じようとしなかった(同日、同調査部長と原告が原告の業務に関し話し合ったことは当事者間に争いがない。)。
(4) 同月一〇日、調査部の事務室が、本社ビル二階から技術館三階に移転した(この事実は当事者間に争いがない。)。
同日午後、原告が移転後の調査部事務室に出てきた(この事実は当事者間に争いがない。)ので、小里調査部長は、原告に対し、重ねて右業務命令を確認して指示したが、原告は、耳鼻科の医師に診断してもらった結果、大分症状が悪いので、資料室では仕事はできないと述べ、従わなかった。そこで、同調査部長は、原告を被告診察室にて診察した被告嘱託の耳鼻咽喉科医師佐藤恒正が資料室検分のうえで原告が資料室で勤務することはその健康に何ら差し支えないとの意見を述べたことを伝えて更に説得した。しかし、原告は、聞き入れなかったばかりか、同調査部長に対し、同月一四日までに調査課の新事務室に原告の机を配置しなければ、同調査部長の机を占拠すると宣言した(同調査部長と原告が話し合ったことは当事者間に争いがない。)。
(5) 同月一四日夕刻、小里調査部長は、原告に右業務命令を遂行し報告書を作成したかどうかを尋ねたところ、原告は、しなかったとのみ答え、直ちにその場を立ち去った。
(6) 同月一五日午前一〇時三〇分ころ、小里調査部長は原告に対し、業務命令を履行しない理由を尋ねた。その際、同調査部長がその椅子から立ち上がったとき、原告は、突然同調査部長の椅子に腰を降ろして机を占拠し、原告の机を調査部事務室に移動しなければ動かないといって居座り、同調査部長の業務遂行を妨害し、支障を与える事態となった。そこで、同調査部長は、人事局に連絡し、このため山中人事局人事部部次長待遇が調査部事務室に急行した。その際、原告は、一時椅子から立ち上がっていたが、再び腰を降ろした。そこで、同人事局人事部部次長待遇は、原告に対し、小里調査部長の執務の妨げになるのでそこからどくようにと指示したが、原告は、「何だ、このチンピラ職制め。」と反抗して従わなかった。しばらくして、同人事局人事部部次長待遇は、故大西総務局長の葬儀の手伝いのためやむなく退室した。しかし、依然として原告は机を占拠し続けたため、更に舟山編成局次長が同事務室に赴き原告の説得に努めたが、原告は、小里調査部長が原告に調査課の仕事をしてもよいといった(なお、このような事実はなかった。)のに調査部事務室に原告の机を移動しないので同調査部長の椅子に座っていると述べ、動こうとしなかった(右のころ、同調査部長と原告が話し合ったこと、そこに山中人事局人事部部次長待遇と舟山編成局次長が現れたことは当事者間に争いがない。)。
夕刻、原告は、同調査部長に、体調が悪いうえ机もないので明日から今週一杯休むと告げて退室した。
(7) 同月二二日昼ころ、小里調査部長は、原告が調査部事務室に来た際、前記報告書提出についての業務命令を確認したところ、原告はこれを拒否し、「処分できるものならしてみろ。」と怒鳴り、丸い小形の椅子を床にたたきつけたため金属パイプ製の脚が曲がってしまった。そこで、同調査部長は、原告に対し、仕事をしないなら処分する旨警告し、資料室で勤務することは佐藤医師の診断によれば何ら不都合はないことを付言しておいた。
なお、同調査部長は、同月一七日、佐藤医師に電話をし、直接右のとおり説明を受けていた。
(8) 同月二五日、小里調査部長は、原告が調査部事務室において部外者用作業机に座っていたことから、原告に対し、「仕事はしているか。」と質問したところ、原告は、資料室では健康上仕事はできないと答え、命令された業務は何ら行っていない様子であった。
なお、右部外者用机は、調査部が視聴率その他の調査及び資料の作成・配布を主たる業務としていることから、被告社内のほか調査会社や代理店等社外からも資料を調査するため来室する者が多く、このため、これらの者の資料の閲覧・転記などの便のため調査部員の机とは別に設置してある作業机であって、原告が勝手にこれを個人用として使用することは許されていなかった。
(9) 同月二八日午後、小里調査部長は、原告が右部外者用作業机に座って本を読んでいたことから、原告に対し、「君の席は資料室だ。あちらで仕事をしろ。ここは君の机ではない。」といって業務を行うよう指示したが、原告は黙して返答をせず、無視して座っていた。
その後、同調査部長は、同年三月一日、同月七日、同月一五日、同月二四日にも、原告が右部外者用作業机を無断で使用していたので、原告に対し、資料室において報告書作成業務を行うよう指示したが、原告は右指示にはいずれも従わなかった。
(10) 同年四月六日午前一〇時四五分ころ、小里調査部長は、資料室において、石川専門部長立会いのもとに、原告に対し右業務命令を出したところ、原告は激昂し反抗的態度をとるのみならず、小里調査部長に対し、ばかと怒鳴るなど暴言をはいた。その際の具体的なやりとりは抗弁2(二)(25)記載のとおりであった(右やりとりのうち、小里調査部長が「資料室の君のデスクで前いったレポートを書け。」といったこと、原告が原告の健康を考えない一方的な命令は聞けないと述べたこと、同調査部長が「聞けないのなら僕も君のことで考えなければならん。」と述べたことは当事者間に争いがない。)。
(三) 原告に対する出勤停止処分の内示とその後同処分発令までの勤務態度
(1) 被告は原告の右(一)及び(二)のような行為を就業規則に違反すると判断し、賞罰審査委員会(取締役全員を含む委員から構成されている。)を開催したうえ、職場秩序の維持確立と原告の反省を求めるため、原告を出勤停止五日の懲戒処分に処することを決定した。そして、被告は、昭和四七年四月一〇日、協定に従い、組合に対し、原告に対する右出勤停止処分を抗弁2(三)(2)記載の文書をもって通知した(被告が組合に対し、右のとおり原告に対する右出勤停止処分を通知したことは当事者間に争いがない。)。同日、小里調査部長は原告に対し右出勤停止処分を内示しようとしたが、その所在が不明であったため社内放送で呼出しをしたのに、原告は出頭しなかった。
なお、これに対して原告は、協定に従い組合に対し右出勤停止処分について異議申立てを行ったので、同月一二日、組合から被告に対し懲戒委員会設置の申入れがなされた。そして同月二四日には労使双方の委員の通知が行われて懲戒委員会が設置され、右委員会は同年八月二四日まで八回開かれた(以上の事実は当事者間に争いがない。)。もっとも、右懲戒委員会は同年三月三一日付けをもって内示された組合役員五名に対する出勤停止の懲戒処分(前年一二月一日に組合が行ったピケットに対するもの)をも併合して審議することとなった(右併合審議の事実は当事者間に争いがない。)ので、被告は原告の件を先議するよう主張したが、組合はピケ処分の件を先議するよう主張したため、結局交互に審議することとなり、このため、原告の件についての審議は右八回のうち六月二日、同月一二日の三(ママ)回であった。
(2) 調査部事務室には、前記のとおり部外者用にスチール製の作業机と椅子が設置してあったところ、原告は、次第に右机に私物を置いて勝手に使用するようになっていた。人事局は、原告の勤務場所を明確にするため右机を撤去することとし、同年四月一三日、田川人事局長、小里調査部長ら立会いのうえ、右机を撤去して新たに部外者用として木製の作業机を設置した。なお、原告の私物については、あらかじめ原告に対しまとめて移動するよう伝えておいたにもかかわらず原告は移動しなかったため、人事局において右机の撤去に際し移動した。ところが原告は、再び右木製の作業机と従来からのスチール製の椅子を勝手に使用することとなり、これは以後本件解雇まで続いた(同日、被告が原告が使用していたスチール製机を撤去して木製の机を設置したこと、その際原告の私物を移動したこと、原告がスチール製椅子を使用したことは当事者間に争いがない。)。
(3) 原告は、出勤停止処分内示後も全く資料室では勤務せず(この事実は当事者間に争いがない。)、反省の態度もみられなかった。このため、同月末ころ、小里調査部長、石川専門部長は人事局と協議したところ、人事局は一応懲戒処分の内示をしたことなどをも考慮し、原告に対する業務指示者を本来の管理責任者である石川専門部長に戻すことなどを決定した。これを受けて同月二八日午後四時二〇分ころ、小里調査部長は、調査部事務室において石川専門部長立会いのもとで原告に対し、〈1〉資料室勤務として石川専門部長の指示に従うこと、机は資料室、〈2〉他社資料室の調査結果をレポートにしてまとめること、〈3〉健康の問題については人事部か厚生部に相談することを命じた(右のころ、小里調査部長と石川専門部長が調査部事務室にいたことと小里調査部長が原告に対し右業務命令を出したことは当事者間に争いがない。)。これに対し、原告は、あれこれ文句をつけ、更に石川専門部長が補足して説明すると、「小里、石川の打合せのうえのでっちあげだ。」といって食ってかかり、資料室には居ることができないので右業務命令は聞けないといって拒否した。
(4) 同年五月九日、原告は小里調査部長に対し、「その後変わった話はないか。健康の件では所属長として検討してくれ。」というので、同調査部長は、「会社の考え方に変わりはない。我々は再検討の余地はない。」と答えた。
(5) 同月一一日、原告は小里調査部長に対し、「やはり変わったことはないか。」というので、同調査部長は、「変わりはない。再検討の余地はない。」と答えた。
(6) 同月一七日、原告は小里調査部長に対し、「会社のあり方は変わらないか。」というので、同調査部長は、「変わらないから仕事をしろ。」と答えると、原告は反抗的な態度を示した。
(7) 同年六月五日、小里調査部長は原告に対し、再度右業務命令を発したが、原告は応答せず、依然として資料室で勤務しようとはしなかった(右勤務しなかったことは当事者間に争いがない。)。
(8) 同月一四日午前一一時二〇分ころ、被告は原告の勤務態度の改善を求めるため、専務取締役編成局長松本幸輝久が原告の所属する編成局の最高責任者として直接業務命令を出すこととし、原告に編成局長室に出頭を求めた。原告は吉良調査課員、酒井中央執行委員を伴って同室に出頭したうえ、同席した小里調査部長から原告に出頭を求めた目的を伝えられると、同室から組合事務室に電話をして組合執行部の立会いを求め、そのため更に二名の中央執行委員が同室に赴いた。松本専務は、原告以外の組合員は退室するよう命じたが吉良らは反発して従わず、また原告も、業務命令は労使間の問題でありしかもこれに関係して原告は現在懲戒処分の内示を受けているので組合執行部を同席させたなどと主張し、騒然となった。松本専務は、田川人事局長に連絡して同席させ、原告らに対し原告以外の組合員が退室しない限り業務命令は出さないと述べたうえ、原告には組合員の立会いのない限り業務命令を受ける意志がないものと確認する旨を言い渡した。さらに、田川人事局長も原告に対し、組合員の立会いのない限り業務命令を受ける意志がないのか否かを質問したところ、原告からは返答がなかったため、そのように判断するよりしかたがない、業務命令拒否と確認すると述べて退室した(松本専務が原告の所属する編成局の最高責任者であること、右のころ、同専務が原告の出頭を命じたこと、原告が他の調査員、組合役員など数名とともに同専務の席に現れたこと、同専務が再度にわたり原告以外の者は帰れと命令したが従わなかったこと、田川人事局長が現れて原告に対し、「組合執行部の立会いなしに業務命令を聞く意志はないのか。」と発言したことは当事者間に争いがない。)。
同日午後五時五〇分ころ、小里調査部長は石川専門部長同席のうえ調査部事務室において、原告に対し、松本専務に謝るよう発言し、また前と同じ業務命令を出した(この事実は当事者間に争いがない。)。これに対し、原告は反発するなどしたが、その際の具体的なやりとりは抗弁2(四)(4)(イ)記載のとおりであった。
(9) 同月一五日、小里調査部長は廊下ですれ違った際、原告に対し資料室で命ぜられた仕事をするよう指示したが、原告は無言で返事もしなかった。
(10) 同月一六日午後一時過ぎころ、原告は小里調査部長のもとに六月前半の出勤表を記入のうえ持参した。このため、同調査部長は原告に対し、「それは毎日資料室で書くものだから石川部長の方へ持って行くように。」と注意したが、原告は返事もせず、出勤表を同調査部長の机上に置いた。また、同調査部長が原告に対し同月一四日に命じた業務を記載した業務命令書を渡したところ、原告は、一旦はこれを受け取り持参していったがしばらくして引き返し、「これは受け取れない。命令書など見たこともない。」といって右業務命令書を返却した(右のころ、原告が同調査部長から右業務命令書を受け取り、しばらくしてこれを返却したことは当事者間に争いがない。)。そこで、同調査部長が命令は聞かれぬのかと質問すると、原告は返事もせずに立ち去った。
(11) 同月二〇日午後二時二〇分ころ、小里調査部長は、原告が調査部の前記部外者用作業机に座っていたので、原告に対し資料室で命ぜられた業務を行うよう命じたが、原告は返事もせず従わなかった。
(12) 同月二一日午前一〇時一五分ころ、二二日午前一〇時二〇分ころ及び二三日午前一一時二〇分ころ、小里調査部長は、原告が右部外者用作業机に座ってタレントカードなどを作っていた(調査課の業務ではあるが原告はこれを命ぜられてはいなかった。)ので、原告に対し右同様命じたが、原告はいずれも従わなかった。
(13) 原告は、同月六日及び同月九日、団地に行って視聴者にワイドショー番組のビデオを見てもらいその反応を調査する調査課業務に同行した。原告は、同月二三日午後〇時一五分ころ、小里調査部長に対し、右調査に同行した際に支出したタクシー代を請求したが、右業務は原告の命ぜられた業務ではなかったばかりか、同調査部長から禁ぜられたにもかかわらずこれを無視して勝手に同行したものであったため、同調査部長は業務に関するものとは認められないとしてこれを拒否し認印を押さなかった(右のころ、原告が同調査部長に対しタクシー代を請求し、これを同調査部長が拒否したことは当事者間に争いがない。)。すると、原告は話題を変え、業務命令について、「毎日同じことをいうのをやめてくれ。」というので、同調査部長がそれはやめられないと答えると、原告は同調査部長に対し無能職制呼ばわりするなど侮辱的な言辞をはいたうえ、更に「そんな職制は仕事の命令を出すのをやめろ。向こう(資料室)で仕事をしろなどという命令をやめろ。」と述べた。
(14) 同月二九日午前一一時四五分ころ、小里調査部長は、調査部事務室において、原告に対し、命ぜられた仕事をするよう命じたが、原告は従わなかった。
(15) 同月三〇日午前一一時一〇分ころ、小里調査部長は原告に対し、資料室で与えられた仕事をするよう命じたが、原告は、「またいうか。」と怒鳴り返し、右命令には従わなかった。
(16) 同年七月三日午後五時一五分ころ、小里調査部長は原告に対し、資料室で与えられた仕事をし、また、出勤表は毎日資料室で記入するよう命じたが、原告は「しつこい。」と怒鳴り返し、右命令にも従わなかった。
(17) 同月四日午後一時三〇分ころ、五日午後二時五〇分ころ及び一一日午前一〇時四〇分ころ、小里調査部長は原告に対し、資料室で与えられた仕事をするよう命じたが、原告は、「おまえこそあちらでやれ。」又は「おまえこそ行ってやれ。」といって従わなかった。
(18) 同月一三日午前一〇時二〇分ころ、小里調査部長は、原告に対し、「おまえの机は資料室だからあちらで仕事をするように。また、ここ(前記部外者用作業机)は他の人も使うのだから私物などを置くな。」というと、原告は、「おまえこそ交通費をよこせ。」と言い返した。同調査部長が、「おまえとは何だ。」というと、原告は、「おまえでたくさんだ。」と答えた。
(19) 同月一七日午後五時三〇分ころ、小里調査部長は原告に対し、資料室で与えられた仕事をするよう命じたが、原告は従わなかった。
(20) 同月二四日午前一〇時ころ、小里調査部長が調査部事務室に入る傍らの階段で原告に対し、資料室で仕事をするよう命じたところ、原告は、「うるさい、ばかもの。」と怒鳴り返した。
(21) 同月二七日午前一〇時二五分ころ、小里調査部長が調査部事務室において、部外者用作業机に座っていた原告に対し、「君は資料室勤務だから資料室の仕事をしろ。ここは君のデスクではない。占領されては困る。」と指示すると、原告は、「そんなことはおまえの決めることではない。」と反抗した。
同日午後二時ころ、本社ビル七階第七応接室で調査課の課会を開いていたところ、原告が入ってきて小里調査部長に対し、「私の業務に関する指示をやめてくれ。そんなことで私が資料室で仕事をすると思っているのか。第一健康問題については権限のないあなたが仕事の指示はできないはずだ。」などといった。これに対し同調査部長は、所属長として仕事の指示をするのは当然であること、また、健康問題については原告が資料室で勤務することは健康上何ら差し支えないというのが被告の見解であることを伝えた(右のころ、調査課の課会が開かれたこと及び原告が同課会で発言したことは当事者間に争いがない。)。
さらに、同日午後三時二〇分ころ、原告は、同調査部長が調査部事務室でチーフ・プロデューサー岡田晋吉と業務の打合わせをしているところに現れ、同調査部長に対し、「業務命令を出すのをやめろ。机をこちらによこせ。交通費を出せ。」と要求した(右のころ、調査部事務室に岡田晋吉がいたこと及び原告が同調査部長に対し、「交通費を出せ。」と要求したことは当事者間に争いがない。)。これに対し、同調査部長は、業務命令を出すのをやめるわけにはいかないと述べたうえ、更に「資料室勤務だからあちらの仕事をしろ。出勤表を勝手に持ち去ることをするな。あちらで毎日書け。」と指示したところ、原告は反抗的な態度を示し、従おうとしなかった。そこで、同調査部長は再度、所属長として業務命令を出すのをやめるわけにはいかないと述べ、態度を明確にしておいた。
(22) 同月三一日午前一一時ころ、小里調査部長は、原告がその出勤表を綴りから勝手に抜き取ったことが判明したので、調査部事務室にいた原告に対し、勝手に出勤表をはずしてはならない旨注意し、さらに、石川専門部長立会いのもとで原告は資料室勤務であることを確認した。これに対し、原告は、以前出勤表を直接小里調査部長に提出したといって反抗したので、同調査部長は、その後はっきり出勤表の置き場所も資料室であることをいってあると答えた。
(23) 同年八月九日午前一〇時二〇分ころ、小里調査部長は、調査部事務室において、原告に対し、資料室で仕事をするよう命じたが、原告は、従わなかった。
(24) 以上のとおり、原告は、前記出勤停止処分を受けた後も資料室で命ぜられた業務を全く行わず、被告の期待した反省の態度を示すことがなかったばかりか、かえって右処分以前にも増して資料室で業務を行うよう命ずる命令に反抗的な態度をとるありさまであった。
そこで、被告は、極めて異例なことではあったが、業務命令をより明確にするため文書をもって業務命令を出すこととし、同月一五日午後五時ころ、小里調査部長が調査部事務室において、原告に対し、従前命じた業務内容を記載した抗弁2(四)(10)記載の業務命令書を手交した(右のころ、同調査部長が同調査部事務室において原告に対し右業務命令書を手交したことは当事者間に争いがない。)。
これに対して原告は、翌一六日午前一〇時一〇分ころ、同調査部長の席に来て、同調査部長に対し、「業務命令書を毎日出してみろ。」と怒鳴り、その机をたたき抗議した。
(25) 同月一八日午前一〇時一〇分ころ、小里調査部長は、調査部事務室において、原告に対し、右と同内容の業務命令書を手交した(この事実は当事者間に争いがない。)。ところが原告は、怒気を示し、室内の複写機で写しをとったのち同命令書の原本を小さく引きちぎったうえ、これを机に向かっていた同調査部長の頭上に振りかけた。
(26) 同月二二日午前一一時ころ、小里調査部長は、調査部事務室において、原告に対し、更に右と同内容の業務命令書を手交した(この事実は当事者間に争いがない。)。これに対し原告は、直ちに右業務命令書を丸めて床に捨て踏みつけたのち、これを拾って引き伸ばしたうえ文面を確認し、「またいやがらせをするのか。」といって持っていった。
ところで被告は、原告の右同月一八日の行為をみるに及んで、もはや企業秩序の維持を図る上でも事態を黙過することはできないとし、最後の反省を求めるため、原告に対し警告書を交付することとした。そこで被告は、同二二日午前一一時一五分ころ、人事部事務室において、原告に対し、田川人事局長名で抗弁2(四)(12)(イ)記載の警告書を手交して(右のころ、同事務室内で原告に右文書が手渡されたことは当事者間に争いがない。)説明し、職場に戻ってまじめに仕事をするよう命じた。これに対し原告は、「うるせえ。」と大声で拒否したうえ、人事局の職制らに対し、「ばかやろう。」「チンピラ。黙れ。」「首にするならさっさとしたらどうだ。」「やるならやってみろ。」などと悪態を尽くし立ち去った。人事局及び総務局事務室には多数の社員がいたが、原告の右言動を目撃し、総立ちとなった。
原告は、同日午前一一時四五分ころ、調査部事務室に赴き、小里調査部長に右警告書を見せたうえ、これについての考えかた、すなわち、原告を処分するつもりなのか、また、所属長として解決するつもりがあるのかどうか尋ねた。同調査部長が命じた仕事をやってもらうだけだと答える(右のころ、原告が右のとおり質問したのに対し、同調査部長が答えたことは当事者間に争いがない。)と、原告は机をたたいたり怒鳴ったりして同調査部長に激しく詰め寄り、持っていた右業務命令書の写しを複写機でとったのち、その原本を丸め、またこれを広げて小さく引きちぎったうえ、同調査部長の机上にたたきつけ、午後〇時二〇分ころ立ち去った。
(27) その後も原告の勤務態度に変化はなく、資料室で勤務することはなかった。
(四) 原告に対する出勤停止処分の発令から解雇までの勤務状態
(1) 前記のとおり、原告に対する出勤停止処分の内示後、同処分等を審議するため、同月二四日まで八回懲戒委員会が開かれたが、被告は組合はいたずらに審議の引延しを計るのみで審議の促進に対する誠意がないとして、第八回をもって審議を打ち切り、原告に対し、同月二五日付けで、翌二六日から同月三一日までの日曜日を除く五日間の本件出勤停止処分を発令(本件出勤停止処分の発令の事実は当事者間に争いがない。)した。
(2) 同年九月一日午前一〇時一〇分ころ、原告は、調査部事務室に来て前記部外者用作業机を無断で使用していたが、組合書記局に電話をするなどしたのち、約一〇分して同事務室を出ていった。そして、午後一時四五分ころ、同事務室に組合ニュースをもって現れたが、約五分間調査課員と話をしたのち退室した。(右の事実は、右作業机の使用が無断であることを除き当事者間に争いがない。)。
なお、本件出勤停止処分後においても、原告は資料室に置かれていた同年九月前半分の出勤表綴りから自己の出勤表を所属長(小里調査部長及び石川専門部長)らに無断で抜き取って保管し、また、事前に出退勤を含めた行動を所属長に連絡せず勝手に行動していた。このため、所属長は同日以降も原告の出退勤等の行動については目についた限りでメモを取ることにより最低限の方法で管理した。ところで、原告は右出勤表にみずから記入のうえこれを同月一八日(同月後半最初の出勤日)、調査部事務室の出勤表綴りに綴ったが、これによると同月一日は「病欠」と記入されていた(出勤表に右のとおり記入されていたことは当事者間に争いがない。)。
(3) 同月四日、原告は、午前一〇時五分ころ、調査部事務室に来て前記作業用机を無断で使用していたが、約二〇分間いて同事務室を出ていった。その後、午前一一時ころから約一〇分間と午後四時五分ころから約五分間同事務室に現れた(午後は組合ニュース配布のため)。なお、右出勤表には同日は「病欠」と記入されていた。(以上の事実は、右作業用机の使用が無断であることを除き当事者間に争いがない。)。
(4) 同月五日、原告は会社に終日姿を見せなかった。なお、右出勤表には同日は「産休(妻の出産)」と記入されていた。(以上の事実は当事者間に争いがない。)
ところで、被告の当時の就業規則によれば、従業員の妻が出産した場合には、当該従業員に特別有給休暇五日が与えられることになっていた。
(5) 同月六日、原告は午前一〇時三五分ころから一〇分間と午後一時二〇分ころから三〇分間、調査部事務室に現れた(午後は小里調査部長が帰室したのを見て退室した。)。なお、右出勤表には同日は「産休(妻の出産)」と記入されていた。(以上の事実は、原告が同調査部長が帰室したのを見て退室したことを除き当事者間に争いがない。)。
(6) 被告は、原告の出勤状態に照らし、再度業務命令書と警告書を交付することとした。このため、同月七日、小里調査部長は原告を探したところ、午後〇時四五分ころ、組合の仲築間中央執行副委員長、酒井中央執行委員が同調査部長のもとにきて、原告は休みだなどといった(右のころ、両組合役員が同調査部長のもとにきて、原告は休みだなどといったことは当事者間に争いがない。)。その後同日午後、同調査部長は原告に対し、前記同年六月一六日等に手交したと同様の業務命令書と抗弁2(五)(5)(ウ)記載の警告書を手交した。その際の原告との間のやりとりは同2(五)(5)(イ)記載(仲築間の発言を除く。)のとおりであった。
ところで、同日夕刻、被告と組合との間で事務折衝が行われたが、その席上、組合から被告に対し原告を病気治療のため休ませる旨の申入れがあったが、被告は原告本人が申し入れるならともかく組合が申し入れるのは筋違いであるとして断った。
なお、前記出勤表には同日は「病欠」と記入されていた(この事実は当事者間に争いがない。)。
(7) 同月一一日午後一時五〇分ころ、原告は、調査部事務室に来て組合ニュースを配布した(この事実は当事者間に争いがない。)。このため、小里調査部長は原告に対し、「休みなのかどうかはっきりしろ。」といって更に右同様の業務命令書を交付した(同調査部長が原告に対し、右業務命令書を交付したことは当事者間に争いがない。)ところ、原告は「休みについてはここに書いてある。」といって前記作業机の上の紙を示したうえ、「組合がいったとおりだ。」といって退室した。
なお、前記出勤表には同日は「病欠」と記入されていた(この事実は当事者間に争いがない。)。
(8) 同月一二日、原告は会社に終日姿を見せなかった。なお、前記出勤表には同日は「産休(妻の出産)」と記入されていた(以上の事実は当事者間に争いがない。)
(9) 同月一三日午後二時四〇分ころ、原告は調査部事務室に現れ組合ニュースを配布し、調査部員と話を交わして約五分間いただけで退室した(以上の事実は当事者間に争いがない。)。
なお、前記出勤表には同日は「病欠」と記入されていた(この事実は当事者間に争いがない。)。
(10) 同月一四日、原告は被告に終日姿を見せなかった。なお、前記出勤表には同日は「産休(妻の出産)」と記入されていた(以上の事実は当事者間に争いがない。)。
(11) 同月一八日午後一時五〇分ころ、原告が調査部事務室に現れた(この事実は当事者間に争いがない。)ので、同五五分ころ、小里調査部長は原告に対し、「休みなのかどうなのか。」と質問したところ、原告は返答せず退室した。
なお、同日前記作業机の上に、「木村さんは当分休みの連絡あり」とのメモが置かれていた(この事実は当事者間に争いがない。)。
3 本件解雇通告
被告は、原告の右2認定の勤務状態は、就業規則四五条「職員が左の各号の一に該当するときは退職を認めまたは解雇することがある。」三号「勤務成績が著しく悪く改悛の見込みがないとき」に該当するとして、組合に対し、同月二〇日協定に従って原告の解雇を通告し、また、原告に対し、同月二二日付け内容証明郵便により同月二七日付けで本件解雇の通告をした(この事実は、被告が原告の右勤務状態を解雇事由に該当するとしたことを除き当事者間に争いがない。)。
三 本件解雇理由の存在と評価
右二認定の事実によれば、原告は、資料室勤務を命ぜられて以降、〈1〉所属長に無断で欠勤・早退・遅刻・離席を繰り返し、特に資料室では当初の一時期を除き、昭和四六年九月以降の約一年間ほとんど勤務しなかったこと、〈2〉出勤表は本来の設置場所である資料室で毎日記載すること、また、欠勤等の際は直属の上司である石川専門部長に直接連絡することなどの上司の指示・命令に従わなかったこと、〈3〉上司により命ぜられた業務をほとんど履行しなかったこと、〈4〉この間再三にわたり注意・警告を受けても反省するどころか一切無視して改めず、かえって反抗し、悪態を尽くしたうえ、業務命令書を交付した上司の面前でこれを八つ裂きにして上司の頭上に振りかけるに及んだこと、そして、〈5〉以上のような言動は、時が経過するに従い一層顕著となっていったのであり、その間被告が原告の反省とこれによる勤務態度の改善を期待して行った出勤停止処分の内示・発令、業務指示者の変更、調査課勤務へ変更の示唆などの配慮にも全く応えなかったことが認められ、これらの事実は前記就業規則四三条三号に該当するということができる。
そして、原告の一年有余にわたる資料室におけるこのような勤務態度からみて、原告には被告の従業員として、上司の指示、命令に従って誠実に労務を提供するという労働契約上の基本的債務を履行する意志なしとの被告の判断は、客観的妥当性を有すると認められる。そうすると、本件解雇事由は存在するということができる。
四 解雇権濫用の主張について
1 再抗弁(解雇権の濫用)1の(一)(勤務場所の違法な変更)の事実について
原告本人は、この点について、小里調査部長及び石川専門部長は原告が資料室の仕事を調査部事務室で行うことを承諾又は確認した旨証言するのであるが、右証言は、先に認定した解雇に至る経緯に照らし、たやすく信用することはできず、他に右承諾等の事実を認めるに足りる証拠はない。
2 再抗弁1の(二)(安全保護義務違反)、(三)(労働安全衛生法違反)の各主張について
原告は、再抗弁1の(二)及び(三)において、原告は、重症の即時性鼻アレルギー症に罹患していたところ、資料室は右アレルギーの抗原である室内塵(ハウス・ダスト)、カビ類が多く、そのような場所での勤務は原告の右疾患を悪化させるものであるから、資料室での勤務を命じた被告の業務命令は、労働契約上の安全保護義務ないし労働安全衛生法上の義務に違反する違法無効なものであって、これを拒否したことは正当であり、これを理由として解雇することは権利の濫用である旨主張するので、この点について検討する。
(一) 証人佐々木好久(第一ないし第三回)は、駿河台日本大学病院の医師として、昭和四七年一〇月一二日及び昭和四八年二月一七日原告を診療した結果、「鼻アレルギー」と診断した旨、原告の鼻アレルギーは重症かつ即時型(抗原に接すると数秒ないし数時間で反応が起きる。)である旨、当裁判所の検証調書添付写真を見ると、資料室は、ハウス・ダストが特に多く、そこでの勤務は原告の鼻アレルギー発病、悪化の原因となる旨証言している。
(二) しかしながら、
(1) 弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる(証拠略)によれば、鼻アレルギーの三主徴は「くしゃみ」「鼻みず」「鼻づまり」であるというのが医学上の定説であることが認められ、また、原告は、資料室に配転後、当初の一箇月間は、資料室に落ち着いて勤務していたことは前認定のとおりである。(弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる(証拠略)によれば、原告は昭和四七年四月一一日の「斗争ニュース」に「移って一ケ月ほどは、毎年一回の本棚ざらえ・社内販売、古い新聞縮刷版の整理・売却、製本した縮刷版の整理など、それまでにたまっていた仕事をしました。」と自ら書いている。)ところ、右の約一箇月の期間内に原告が鼻アレルギーの前記三主徴を訴えたことは、本件全証拠によっても、これを認めるに足りない。成立に争いのない(証拠略)によれば、原告は、昭和四六年八月一三日被告会社内の診療室を訪れているが、それは「頭部湿疹再発」のためであり、右の期間内に原告が右診療室を訪れたのは、この時のみであると認められる。
(2) 原告は、昭和四六年九月二二日以降アレルギー性諸疾患のため、多数回にわたって医師の診療を受けたと主張している。しかし、原告は、このころは既に本館ビル内の調査課事務室が自らの勤務場所であると主張して、地学会館一階の資料室には自発的に時折訪れる程度で、そこでの継続的勤務は拒否し続けていたことは前認定のとおりであるから、その時期の諸症状が、資料室内のハウス・ダストによって生じたとは認め難い。
(3) (証拠略)によれば、原告は、昭和四六年一一月一一日、被告診療室において診察を受け、被告に診断書を提出したが、その診断書記載の病名は「慢性喉頭炎」であったこと、しかし同診断書に「附記」として「当分の間、塵埃の多い環境での作業を避ける方がよい。」との記載があったので、被告は、その診断をした耳鼻咽喉科専門医である佐藤医師に同年一二月ころ資料室を実地に検分してもらった結果、この程度なら原告の勤務には差し支えがないとの確認を得たこと、昭和四七年四月にも同様に佐藤医師の再度の実地検分のうえでの同旨の確認を得たこと、被告が原告に資料室での勤務を命じたのは、右のような原告を診察した専門医の資料室の実地検分を経たうえの確認の結果、原告の拒否には正当な理由がないとの確信に基づくものであったこと、以上の事実を認めることができる。
(4) 原告は、昭和四六年九月ころから本件解雇に至る約一年間、資料室勤務を拒否する一方で、自己の勤務すべき場所は本社ビル二階、次いで技術館三階に移転した調査課事務室であると主張して、現実に調査課事務室に滞留していたことは前認定のとおりであり、そのような行動をとった理由として資料室のハウス・ダストが多いことを主張しているのであるから、調査課事務室との比較において、資料室の方がハウス・ダストがより多く、鼻アレルギーに対する有害性において有意的な差があるというのでなければ、主張としても平仄が合わないというべきである。ところが、(証拠略)(昭和四七年九月一一日、被告の依頼により財団法人東京都予防医学協会健康サービス・センターが実施した環境調査の報告書)によると、粉じんの量は、資料室事務室の方が調査部事務室より少なかった(資料室事務室は、第一回測定時〇・〇一(単位は立方メートル当たりミリグラム)、第二回〇・〇三、調査部事務室は第一回〇・〇三、第二回〇・〇四)ことが認められ、この測定値はもとより変動性のものと考えられるが、これに反し調査課事務室の方が資料室に比してハウス・ダストが少いことを認めるべき証拠はない。
(三) 右(二)の諸事実に照らすと、前記の証人佐々木好久の証言は、にわかに信を措くことができず、他にこの点に関する原告主張事実を認めるに足りる証拠はない。また、本件解雇の理由は、原告の資料室配転後約一年二箇月間の勤務態度の全体、なかんずく、石川専門部長の指示、命令に対する包括的無視、小里調査部長に対する業務命令書八つ裂き振りかけ行為、松本専務に対する業務命令伝達自体の拒否等から看取される使用者の指揮命令に従って労務を提供する意志自体の欠缺にあることは前認定のとおりであるから、仮りに原告に鼻アレルギー症があったとしても、それだけで右判断を左右するには足りないというべきである。よって、再抗弁1の(二)及び(三)の主張は、いずれも理由がない。
3 再抗弁2(重大な手続き違反)(一)ないし(三)の各主張について
前認定の本件解雇に至る事実経過に照らすと、被告は再三にわたり警告書を発し、反省を求めており、被告が原告に対し、本件解雇に際し解雇の具体的理由を明らかにせず、又は弁明の機会を奪ったとはいえず、本件解雇は労働法上の信義則に違反し違法・無効であるとする主張は採用しない。
また、本件解雇が、就業規則に基づく通常解雇であることは先に認定したとおりであり、その実質は懲戒解雇である旨の原告の主張は独自の見解にすぎず、右見解を前提とした本件解雇が懲戒委員会での協議を定める労働協約に違反し、かつ、同一の事由に対する二重処分であって違法・無効であるとする主張も前認定の事実に照らすと失当であることが明らかであるから採用しない。
五 不当労働行為の主張について
(証拠略)を総合すると、原告主張の1(組合の活動)及び2(原告の組合活動)の各事実を認めることができる。しかし、被告が原告を解雇した理由は、前認定のとおり認められるのであって、本件解雇が原告の組合活動を嫌悪してなされたことを認めるに足る証拠はない。
六 結論
以上によれば、本件解雇は有効というべきである。
よって、原告の請求は、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 白石悦穂 裁判官 納谷肇 裁判官遠山廣道は、転官につき、署名捺印できない。裁判長裁判官 白石悦穂)